ジョーカー観た -純粋悪とは-
ダークナイトが好きです
昔「ダークナイト」を見て、一発でその映画が「今まで見た映画ランキング」の1位になりました。それくらい「ダークナイト」のジョーカーが好きです。
しば~らく前に「スーサイド・スクワッド」を見て微妙だったのもあり、なんとなく見ることができずに放置してました。ただ今回暇だったのとアマプラの検索結果に出てきたことから見ることを決意しました。
感想に入る前に
「ジョーカー」、もう2年前の作品なので、上質なレビューがとっくに出ています。
僕は記事を書く前に他の人のレビューをちょっと調べることにしてるんですが、下記のレビューが極上だったのでオススメします。
あらすじ
売れないコメディアンのアーサー・フレックが暴漢に遭遇したのは、ゴッサムシティの街を道化姿でさまよっていたときだった。社会から見捨てられたフレックは徐々に狂気への坂を転落してゆき、やがてジョーカーという名のカリスマ的な犯罪者へと変貌を遂げる。トッド・フィリップス監督が放つ、衝撃のサスペンス・エンターテイメント!
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主人公「アーサー」は、ゴッサムのさびれたアパートで母の介護をしながら売れないピエロとして日銭稼ぎをしていた。アーサーは脈絡なく笑ってしまうチック障害を持っており、気味悪がられるだけでなく暴行を受けることもあった。ある日、護身用に持ち歩いていた銃を仕事中に取り落としてクビになる。その日の夜にチック障害が原因で若者3人に暴行を受け、逆上したアーサーはその3人を銃殺してしまう……
「ヒーロー映画」ではない
DCコミックスの代表作品「バットマン」のスーパーヴィランであるジョーカーですが、今回はまったくバットマンは出てきませんし、何なら他のヒーローもヴィランも一切出てきません。しかし、この作品はジョーカーが「ジョーカー」に成るまでの話です。
僕はあんまりDCとかマーベルの映画は好きではありません。やってることが基本的にニチアサの戦隊モノみたいな感じで、ヒーローが街のために悪を倒す、みたいなステレオタイプの図式があんまり好きじゃないからです。かといって「ウォッチマン」みたいな振りきれた作品もそんなに肌に合わなかった。
「ダークナイト」が好きだった理由は、スーパーヴィラン「ジョーカー」を中心として振り回されるバットマンとゴッサムの街を通して、悪のカリスマとしての「ジョーカー」が非常に魅力的に描かれた作品だったからです。「ヒーロー映画」から逸脱して暗澹な雰囲気が趣味にすごい合ってたんですね。
「ジョーカー」も「ヒーロー映画」から逸脱した暗澹な作品ではありますが、「ダークナイト」と違うのはそもそも「ヒーロー映画」の邪道どころかそもそも「ヒーロー映画」じゃなくね?というところです。「ジョーカー」というバックグラウンドがなければ、これはただ社会に疎まれ押しやられてきた人間が社会に反旗を翻す話だからです(先に挙げたレビューで「タクシードライバーから多大な影響を受けている」という話が出ていますが、まさに「ジョーカー」ではなく「トラヴィス」でもいいわけですから)。
「純粋悪」の条件
僕はyoutubeでずっとドラクエ7の実況プレイ動画を上げています。ドラクエ7というゲームは、過去に行ける石板を集めながら、魔物に苦しめられている過去世界を救い出して封印された世界を取り戻し、世界を封印した原因である魔王を倒す、というゲームです。
魔王や魔物という存在は基本的に(重要)「純粋悪」であり、悪だから人間や社会を脅かす、という存在そのものの目的が悪という立場の存在です。しかしながら、ドラクエ7というゲームのシナリオでは、魔物を倒して過去世界を救い出しても、「本当に魔王や魔物がいなくなったら世界は救われるのか?」と思わせてくるところです。魔物と関係なく人間の確執が人間を脅かしたり、過去に魔物に苦しめられたり人間同士で諍いあったりしたことが、数百年後の未来で忘れ去られて過ちを繰り返したりと、「魔物」という純粋悪が存在しなくても、人間の中の悪性が人間自身の生活に根を張っているのだ、ということを伝えてきます。
「ダークナイト」におけるジョーカーは純粋悪そのものであり、口軽く自分の悲しい人生を騙りはするものの、社会の混乱と混沌を第一義として悪のフィクサーとして蠢くその様は「悪そのものを目的とした悪」です。「ダークナイト」においては、社会の恐怖や混沌に巻かれ混乱する人間の姿は描かれているものの、やはり一般市民と犯罪者・ジョーカーの立場は一線を引かれているように思います。バットマンはその中で「ダークヒーロー」なので、社会に振り回されながら、市民の側と犯罪者の側で揺れ動く存在です。
「ジョーカー」におけるジョーカーは、純粋悪としては描かれていません。いわゆる「悲劇的な悪」というか、普通の犯罪者のように「悲しい生い立ちがあって心を壊し、犯罪に走ってしまった一人の人間」として描かれています。これが両作品におけるジョーカーの決定的な違いだと思っています。
キャラクターの生い立ちがキャラクターに「深み」を持たせることはよくあります。漫画なんかでもキャラクターの過去編が挿入されれば、そのキャラクターの性格や能力に理由付けがされ、感情移入しやすくなります。鬼滅の刃とか呪術廻戦とかナルトとか……
一方で、「ダークナイト」のジョーカーは悪役としての「底知れなさ」があります。生い立ちも能力も素性も謎、どれだけ追い詰められてもなお逃げおおせ、何度でも犯罪者を引き連れてバットマンを追い詰める……強さ、悪としての底が見えない狂気が、フィクサーとしての器の大きさを決定しています。
「深み」を知ってしまう、ということはつまり、「底を知ってしまう」ということなんだと思います。両者は両立しない。
あくまでこの作品はDCバットマンのパラレルワールドのひとつでしかない、という立場のようですが、しかしこの「ジョーカー」を支持したくない理由は、「ジョーカーは底知れない悪のフィクサーであってほしい」という願望が強いからなのだと思います。
ヒーローなんかいない
人間には善性も悪性も備わっていて、簡単にどちらにも傾き得る、という話はドラクエ7やらジョーカーやらタクシードライバーやらで描かれています。ドラクエ7においては「勇者」という純粋善や「魔王」という純粋悪が存在しますが、過去や現代の村・街においてはそれらの存在が外乱程度でしかなく、あくまでその空間でのNPCたちの営みは独立なものです。
「ヒーロー映画」におけるヒーローやヴィランの存在意義とは、「共通の味方」や「共通の敵」を作ることで、人間というアンバランスな存在の立場を定義すること、いわば「モブ」にしてしまうことなのかなと思います。そうすることで、個々の人間の選択は排除され、ただ正義と悪の戦いが描かれるだけになる。
しかし、現実社会にはヒーローやヴィランなどというものは存在せず、そこにはただどちらでもない人間があるのみです。「ジョーカー」は人間の善性や悪性を仮託される存在がいないため、「ヒーロー映画」ではないわけです。誰かが良かれと思ってやったことが誰かにとって悪であるとか、あらゆることは不安定であり、かつ誰にとっても取るに足らないものである。
現実社会で「陰謀論」とかを語る人がぽつぽつと出るのは、もしかしたらそういう作用が働いているのではないかなと思います。取るに足らない自分の人生が何かに脅かされるのは、「何かもっと大きな悪によるもの」でなければ気が済まない、ということなのかもしれません。アーサーがそうだったように、自分が何かを「持っている」人間だと思いたい。そうではない、と分かった瞬間に、人間は簡単に狂気へと陥る。
とはいえ、面白い映画だった
「ジョーカー」という存在がこの映画にとっつきやすくしていることもありますし、「ダークナイト」のジョーカー観を抜きにしてフラットにこの映画を見たら、面白い映画だったなという感想で総括されると思います。やむにやまれぬアーサーの事情や心理描写もそうですし、暗鬱で希望の見えない70~80年代アメリカの雰囲気といい、作品としての評価が高いのも頷ける良作だと思います。是非「ダークナイト」と見比べていただきたい本作です。
……本当は身の回りにファンが多いからアベンジャーズシリーズとかも観たいんですけど……数が多いんだよな……
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