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人生待つのが仕事

創作のことばかり考えている私が、一年365日のうちで「やったー」と思える日は2,3日あるかどうかだ。あとの360日余りは、書いているか、読んでいるか、(公募の結果や原稿を預けた編集者からの返事を)待っているかのどれかである。いや、書いているときも読んでいるときも、常に心の奥底では結果や返事を待っているような気がする。

それで気づいたのだが、私たち人間は(創作者でなくても)いつも何かを待っているのではないだろうか。具体的に、知っている誰かや予定されているイベントを待っていることもあるし、抽象的に、理想の人との出会いや楽しいできごとが起こることを待っていることもある。

そして、当然だが、私たちが待っているのは「良いこと」のみであり、悪いことは待っていないし、できれば来ないでほしい。

問題は、待っているときの心構えだ。待っていることを意識すると時間が長く感じられて、辛い。できれば待っていることを忘れて、イキイキと生きていたい。良い結果を期待して待っていると、悪い結果が出たとき、立ち直るのに時間がかかるから、普段から「平常心」を保っていなければならない。

要するに、
・いい人とめぐり逢えなくてもいい。
・楽しいことが起こらなくてもいい。
・公募の結果はたぶんボツだろう。
・編集者さんの返事もボツだろう。
と思っていれば、365日のうち、たった数日「やったー」と思える日が来ただけで、上等である。

人生待つのが仕事とはいえ、待っていると時間が長く感じるのはなぜだろう。考えていたら、以前書いたエッセイ「大人になると時間が速く進むのは」を思いだした。

子どもと大人で時間の進む感覚が違うのは、記憶量が関係しているのではないかと書いたのだが、それよりも「待ち時間」が関係しているかもしれないと思えてきた。子どもは大人に依存して生きているので、自分がやってほしいことを大人がやってくれるまで待たなければならない。待ち時間が途方もなく長いのだ。一方、大人は自分の時間を生きられるので、他人に待たされる時間が少ない。待っている相手がなかなか来なかったり、空腹なのに食べ物にありつけないときは時間が長く感じられるだろうが、それでも子どもの比ではない。子どもにとって時間の進み方が遅く感じられるのは「待ち時間」が長いから。この説、どうだろうか?

どちらにしても、人生待つのが仕事なら、歌でも歌いながら楽しく待ちたいものである。



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