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羽生善治と小学生将棋名人戦決勝を戦った少年・山下雄さんの話

※一部有料ですが、3分の2程度は無料でお読み頂けます(終盤3分の1程度、広く公表したくない内容が有料となっています、すみません)。


◆100万インプレッション、話題の(?)ポスト

先日、X(旧Twitter…いつまで言うねん、これ)で私のとあるポストが100万に近いインプレッションを獲得した。

まあ、例によってバズってるポストへのリプでインプレッションを稼ぐ省エネゾンビなのだが、それでも内容でちゃんと反響があった印象であった。
なのでちょっとだけ、この件、というかこの人を掘り下げてみたい。
この人=山下雄さん、である。

このポストに書いた通り、山下雄さんは1982年の小学生将棋名人戦の準優勝者。準決勝で森内俊之さん(後の十八世名人資格保持者)に勝って、決勝で羽生善治さん(後の十九世名人資格者)に負けたという人物である。
ちなみに山下雄さんは森内・羽生両氏と同級生。このまま将棋の道を歩み続ければ、ライバルたちと並んで斯界を代表する棋士として名を残していた可能性も低くなさそうだが…その人生は信じられない方向へと向かって行く。
最終的にはXにポストしたようになるのだが、その前に幾つかの岐路があるので、私が知っている限りを記して行こう。

函館出身の山下雄さんは、高校卒業と同時に上京する。
私立のそこそこの進学校に通っていたので、卒業生はほとんど全員が大学に進学するのだが、彼が上京した理由は大学入学でも予備校入学でもなかった。
本人曰く「立川談志に弟子入りする」ため、である。

実際その門を叩いて師事しようとしたとのことだが…この辺の話は、あくまでも私が彼自身から聞いただけなので、本当は違ったのかもしれない。
実家がかなり裕福でしっかりしていたので、その監視から逃れるために理由はなんであれ上京した、といったところかもしれない。いずれにしても面白いことを探しに東京にやって来て、実際に自由で楽しい日々を謳歌しているのは間違いなさそうだった。

私が山下雄さんと友人だったのは、彼が21歳~30歳ぐらいの間である。
その頃のことを順を追って書いてみたい。

◆出会い~1992年秋のある夜

私と彼との出会いは、32年ほど前に遡る。

当時の私は東京都国立市にある一橋大学に通っており、住んでいたのは隣の立川市。ある日の夜、午前0時を回ってそろそろ寝ようとしていた頃に自室の電話が鳴った(まだ携帯電話は普及していない)。
電話に出てみると、全く知らない人から、全く思いもよらない内容を伝えられた。
「(半笑い)くんですか?あなたの大学の同級生のAから聞いて電話してるんですが、私はAの高校時代の同級生の山下と言います。あなたが麻雀好きだと聞きまして、もし良かったらこれから麻雀しませんか?」

ぇえ?誰?こんな怪しい電話あるの?!と思うより先に、私はこう答えていた。
「どこですか?終電ギリギリなので、場所によります」

結果から言えば、電話を終えた私は即座に着替えて家を出て全力で立川駅まで走り、中央線の終電で中野まで辿り着き、そこで山下さん以下3人と合流してタクシーで歌舞伎町へと向かっていた。

今思えば、それまでフリー雀荘で知らない人と麻雀を打つ経験もほとんどなく、歌舞伎町なんて数えるほどしか行ったことなかった私が、こんな誘いに乗ること自体が恐ろしいが、電話での話し口調などから彼の人当たりの良さや育ちの良さをなんとなく看取していたのだろう。
…なんて言いつつ、私自身が単純に「そういう刺激」に飢えていた気もするが。

ちなみにその時出会った3人全員はAの高校の同級生らしく、1人とは疎遠になったが、山下さんともう一人(仮にMさんとする)とは、その後まあまあ濃密な「青春時代」を過ごすことになる。

◆山下雄さん、麻雀プロになる

そんな奇妙な出会いから、私たちはかなりの頻度で一緒に麻雀をする仲になって行く。
山下さんとMさんと私に、あと一人はその時々でいろいろ変わったが、ほどなく私の高校の同級生(仮にEとする)が1年遅れて上京して来て、レギュラーメンツに加わって、この4人で100晩は共にしたのではないか。
ちなみにこのEは地元の予備校の寮から脱走して上京して来て、受験生なのに毎晩のように麻雀、昼間はスロットで生活費を稼ぎ、これは何年も浪人するんじゃないの?と思わせておいてすぐに六大学に合格して見せた。やるねえ。
そんな日々の中で、私とEとMさんが高田馬場の同じ雀荘のアルバイトで働き出し、山下さんも誘ったが働く気配なし。この辺で山下さんの実家が太いことに気付いたと思う。
ちなみにこの雀荘のフリーはテンピンで、学生としては頑張って凌いでいた感じ。店長は日本プロ麻雀連盟、後に第14期鳳凰位を戴冠する原田正史プロだったので、その背中を見ていた我々は自然とプロを志すように。1993年に私とMさんが、その翌年にEと山下雄さんが日本プロ麻雀連盟のプロになる。この時代の同世代の交友関係のなかには、今や日本プロ麻雀連盟の理事である黒木真生プロなどもいるのだが、まあそれはまた別の話。

恐らくこの時代としてはかなりハイレベルな麻雀仲間だったはずで、しかし誰かが負け続けて困窮することもなく、なんやかんやで実力はみんな拮抗していたのだろうと思う。それも麻雀が楽しく、夢中になるのに大きな要素だった。
そして何よりもいつも和気あいあいで、この仲間で集まるのが楽しくて仕方なかった。特に山下雄さんの、会話と笑いのセンスにはいつも目を見張るほどだった。30年以上前の時点でノリツッコミとかも異様に上手かったので、本人から聞いた前述の「立川談志に弟子入り」の話もリアルに信じていた。
この頃の卓上の会話のなかで、「将棋は羽生がいて日本一になれないのが分かったから、俺は麻雀で日本一になるから」という話を何度か聞いていたが、これはボケではなく本気で言っていたと思う。

たまに人数余って後ろ見することがあると、とにかく山下雄さんだけが「異質」な麻雀を打っていた記憶がある。
当時はまだ他人の打ち筋を牌譜として見ることがほとんどなく、戦術研究も今とは雲泥だった時代なので、山下さんが時折見せる守備的な手筋が衝撃だった。具体的には、序盤から攻撃の道筋を極端に狭めて守備重視の手組をする頻度が高く、それこそ今や日本一の麻雀プロ・多井隆晴プロが有名にした「配牌オリ」のような打ち筋も見せていた。そんなフレーズは当時なかったので、これが将棋指しの打ち方か、と私は勝手に「穴熊」と呼んでいたのだが。

◆「北海の真剣師」山下雄~私が実情を知っていた理由

私は卒業こそ5年掛かったが、1997年にテレビ局(日本テレビ放送網株式会社)に就職して、社会人としてはかなり忙しい日々を送ることに。
流石に学生時代の仲間に会う頻度は極端に減ったが、それでも彼らと飯を食ったり、麻雀を打ったり小バクチを楽しむ機会はあった。MさんやEは、雀荘の幹部になったり、時折思い出したように就職したりしつつ、麻雀プロとして頑張っている模様。依然として山下雄さんだけは働いている様子もなく、小さいバクチの席で彼の姿を見ることもなくなっていった。

そんな折、CSチャンネルの「MONDO21」(現在はMONDO TV)が1999年ごろから若手プロにスポットをあてたコンテンツを連発するようになり、そこに山下雄さんやMさんは呼ばれるようになって行く。

この動画の本編は他のプロによる対局だが、オープニングには「”北海の真剣師”山下雄」の姿を見ることができる(冒頭のポストはここからのスクショ)。

旧知の友人たちがテレビに出る側になって嬉しいなあ、と純粋に喜んでいたが、その頃の山下雄さんについてはその生活についてちょっと心配もし始めていた。
そもそもキャッチフレーズにもなっている「真剣師」は、賭け将棋で生計を立てる人のことを指している。キャッチフレーズにこれを使うだけでも今では考えられないが、この頃の彼はまさに賭け麻雀で生計を立てることに没頭していたのだ。

なぜ私がそれを知っていたかと言うと、

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