ロックンロールの自殺者
昔インドで勉強してた頃、俺の師匠がインストラクターとティーチャーの違いみたいな事を話した事があった。
インストラクターは、自分の立ち位置や経験に関係なくシステムとしてのヨガのテクニックを教えるだけの存在だが、ティーチャーは自分が歩いて経験して来た道を、ほんの少し先から
「自分もこの道を来たんだ。だから安心して、信頼して、付いて来てくれ」
と云う存在だと。
だから、ティーチャーは正しい道を歩まなければらならない。そして君は、インストラクターではなくヨガティーチャーになりなさいと。
この歌を聴くとその言葉を思い出す。
ヨガのインストラクターって、少なくとも俺の周りの印象では、会社とか家族とか社会のしがらみからそれらしいエクスキューズ(心と身体のバランスを崩したって何のことだよ?より多くの人にこのヨガの素晴らしさを伝えたいって、自分がそれを何の葛藤も逡巡もなく出来るってよく思えたなー、俺は未だに無理なのに
)をつけてエスケープして、安易なTTなどでヨガを学んで、自分は変わったとうそぶきながらも過去のそれらには何のオトシマエも付けず、それでいながら、社会の最前線ですり減り疲弊しながらも頑張ってる人たちに
「あなた達も私のように楽になればいいのに」
「ピュアでクリーンな生活を送るべきよ」
「今のあなたは本当のあなたではないわ」
・・ってふざけんなおい。
デヴィッド・ボヴイのこの歌は、世界との違和感に悶え苦しみ、ロックンロールの破滅とか夭折とかに陶酔した経験を、自分もそうだったと徹底的に共感しながら、
「でもそうじゃないんだ!待ってくれ!」
と必死に呼びかける。
君たちが感じてる苦しみは全て知ってるし本当にその通りなんだけど、でも、本当に本当は違うんだと。
君は独りではないし何があろうと世界は素晴らしい。
それでもロックンロールは逆の事を歌うし、そう生きればカッコいいかもしれないけど、でもそうじゃんいんだと。。
我が祖師ゴーラクシャナータも、その師マツェンドラナータも、職業はプロのヨガインストラクター?ではなかった。牛飼いと漁師が、本職の傍らヨガを実践していたのがこの流派の始まりだ。
カーンパタ(耳裂き派)とかナータ派と云われるこの流派は、実社会に歴とした肩書きを持ってコミットしながらヨガを実践するのが主眼だった。
今、会社とか社会とか家族とか人間関係とか、そういうおおやけのしがらみで疲弊してる人たちには、そこで生きながらヨガを実践してる人にしか、救いの道を照らすテールランプは灯せないんじゃないのかと、このロック史上最高の名曲を聴きながら思う。
余談なんだけど、俺はこの動画のライブのリハーサルを大学生のアルバイトとして眺めていた。
デヴィッド・ボウィ本人が、なんでか俺と目が合う度に手を振ってくれたりウインクしてくれた。勘違いではない。だっていつもそこには俺しかいなかったんだもの。
それは本当に自慢なんだ。