会議に出る ②

 事前にうるさく言ったせいか、今回の議長は議題をまとめた資料と会議の段取りを示したレジュメを、何度も改訂を重ねては、データとして送って寄越した。しかし最近の常で、直前になって問題がいくつも勃発。議題が膨らみ、到底時間内には終わらないであろう予測がつくことになる。
 会議は大体、ゲスト案件から処理されていくため、先ず市教委の担当主事との意見交換から始まるのだが、今回はしょっぱなから冷めてしまった。
 学力テストの結果から、児童の読解力低下が問題視されていると言う。それに伴い、学校図書館の利用推進を含め、読む・書くの向上を目指して、司書と協力し合っていく必要があるとの見解らしい。その為にどんな取り組みが効果的で、実際、どのような取り組みを今現在行っているのかと質問された。
 何人かの司書が意見を伝える。中には『そんなことに何の効果が…?』と思うようなものも幾つかあったが、其々が其々の努力の結果、導き出した事案なので、この目で見ていない私にわかるはずはない。
 私は黙って聞いていた。というより、呆れてものが言えなかった。
 児童の励みになるような、あらゆる司書のあらゆる努力を断ち切ったのは、市ではなかったか?
「図書であっても授業は担任がするべき」と明言し、「司書経験を業務量ではなく質に還元しろ」という謎な発言をした。
 唯でさえ授業と片付けで大方終わってしまい、他の雑務や準備の時間すら取れない業務時間を削減し、それに伴って元々低い賃金を更に削った挙句、専門職の熱意や誇りまで見事に削いでおきながら、何を協力せよというのか?児童に必要な応援や励ましから手を離すことで業務量の削減を一部実現したが、それは司書職の業務削減ではなく、結果として市教委の業務削減になっている。唯の怠慢ではないか?監督・指導の立場でありながら、図書に対する教員陣の無自覚や無理解を放任し、数字のみを追い求めて、児童の実情をまるで目にしていない。
 今年度、〝業務削減〟の名のもとに、私はあらゆる作業を既に手放していた。
 読書ノートのハンコ押しは、主体を担任に委ねた。
 体裁ばかりを気にする教員の無理解にも背中を押され、NIEの取り組みをやめるとともに、情報センターとして新聞を設置することをやめた。
 児童と本を繋ぐ役割を担い、一年間、週に一度の図書の時間がマンネリ化しないよう、工夫を凝らした各種イベントやそれに伴う参加推進も、行うための準備時間さえ目処が立たないため、保留状態である。
 児童だけでなく、保護者もまとめて読書活動に引き込むために行ってきた、様々な情報公開を含めた毎月の図書だよりは、多くの柵から、本の紹介以上のことが出来なくなっている。
 いずれも一年や二年で大きく結果が出るものでは無く、継続して行いつつ、状況に応じて改良を重ねる余地があることばかり。それでも児童の様子を続けて見ていれば、日々の小さな成長に驚き、感動すること然り。励まし、応援出来ることが山のようにあることに気付かされる。
 現実として、主体を委ねたハンコ押しを、担任ではなく未だに司書に求めに来る児童が多い。今までの習慣を簡単に変えられないだけなのかと思ったが、必ずしもそれだけではないように感じるのは、授業中、担任が呼び掛けようが、積極的に誘おうが、担任の顔を凝視したまま列から動かない子どもたちがあまりに滑稽で笑いが止まらなくなったせいばかりではない。後日、高学年になって授業義務がなくなったある読書家の女子児童が休み時間にやって来るなり放った言葉に、腑に落ちることがあったせいだ。
「あ~~~、先生(司書)に読書ノート見て欲しい!」
 ハンコは押すものだが、押すだけだと郵便局の消印と同じだ。児童が書いてきた内容に気を留め、一つ一つこちらが反応する。必要ならアドバイスし、間違いがあれば気付きを促し、評価出来るところはしっかり評価する。不用意に心動かされることは少なくなく、見ている方は驚かされ、正直に感動を覚えたとき、一司書のそのリアクションだけで子どもの士気は自然と上がるのだ。
 担任が自身の素直な感情を、子一人一人に見せない理由は其々だろうが、児童にとって、大人の反応を直に読み取れないことは、関心を持たれていないと感じる要因でもある。それを知ってか知らずか、我流が児童の向上心を削いでいることに無頓着な教員が殆どである。
 短い時間であれ、〝絵本〟という媒体を通じて、自らの感情を言葉に乗せて表すのは、義務とはいえ誰もが得意なわけではない。一時の感情を他人に晒すだけでなく、結果が不備だらけだったとしても、文章を構築するには其々に〝生みの苦しみ〟があるのだ。そう考えると、〝ハンコ押し〟を〝郵便局の消印〟と同じ感覚で行うのは児童に対して失礼。そのような認識を持ったのは、業務引継ぎで授業を見学した際、前任の作業がまさにその様子を呈して違和感を感じたことが大きく影響していた。
 授業のない高学年だけでなく、帰り道に立ち寄れることで図書利用の推進を担っていた放課後開館も、時間的に不可能になった。今年度は利用率がぐっと下がるだろうが、市教委がそれを想定出来ていないのだとしたら、反って驚くべきことである。単純計算さえ出来ない人間が、子を指導し、子を指導する教員を指導しているということに相違ないのだから…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?