棚花俊
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スノードームと金平糖(詩集)
生きて生きている限り、ぽろぽろといのちは落ちていき、そのばらばらの破片を犬が喰らう。かつて内臓だったものが垢となってぽろぽろと落ちていく。その生きてきた証をこそ星と呼ぼう。零れ落ちていく星を必死に受け止めようとする少年の軌跡。「鉱床」「星を漏らす吐息」「little ghost sigh」含む全20篇の新詩集。「鉱床」この小さな町には名画座と古本屋しかありませんこの小さな町の住人はみながみな宝石商です店舗はない為、ポケットに宝石をつめて町を闊歩していますみながみな用心深く宝石を盗まれないようにひそひそと歩くので町は静かで、時々うっかりと宝石が擦れて鳴る他には正午の鐘の音しか響きません大きな音は宝石に障るのでみながみな家に閉じこもりますだから誰もいない町に鐘の音が響き渡るのです正午になる前にみながみな家に閉じこもるのですから、時の報せに意味があるとは思えませんが習慣というものは振り返って考えることもなく何百年とつづいたりするものです名画座にはいっぱいのお客がいますが誰一人映画を見ている者はいません宝石に光を食べさせているのです映写機から放たれた光をみながみな宝石に食べさせるものですから、映画は屈折し反射しばらばらになって、部屋中に散らばります色々な色をまとって散らばった光は美しくその明かりの中で宝石商は本を読むのです失われた物語を取り戻すためにところで名画座や古本屋は誰が営んでいるのでしょう新しい本はどこにもないのにどうして古本が溢れることができるのでしょう鐘楼は誰が管理しているのでしょうそれは泥棒の情けなのです宝石泥棒が町にやってくるとどれを狙うか見をしますそうしてひそひそと歩く様はまるで宝石商のようです辺りの静けさにどうしようもなく馴染んだ泥棒はやがて動けなくなるのです心が鐘を鳴らし記憶が本に綴じられ力は映写機を動かします瞳は二つころりと落ちて宝石になり肉体はそれをポケットに入れて宝石商になるのです宇宙中の泥棒が宝石を我が物にしようと訪れます泥棒がやってきてやがて鐘を鳴らしたときそれを正午と呼ぶのですそんなにやってきては小さな町に人が溢れかえりそうなものですがそうならないのは少しずつ減っているからでしょう古本屋に本が溢れるのに人は溢れないのは鐘の音に秘密があるのかもしれません曖昧な正午を思うと一日は私たちの言う一日ではないのかもしれません同じ一日が百年も二百年も続いていたのかもしれませんし、たった一秒のこともあるでしょうそれでも泥棒たちは孤独ですから一日一日はちゃんと分かたれるのです※表紙に描かれた金色はひとつひとつ著者による手描きになりますので、画像と多少の差異があるかと思います。線のゆれも楽しんでいただけると幸いです。カナタナタ第2詩集。
道路の少年(詩集)
セブンティーンアイスが好きな少年が道路の縁石に座って本を読んでいたりする。それがどこかの病室のベッドでも変わりはない。それが少年であるか少女であるか或いはどうしようもないジジイであるか。そんなことはどうでもいい。例えば少年は幽霊を見た。例えば少年は水面で揺れる光を見た。それでふらふらと縁石の上をよろめきながら歩く。少年は光の消え方を知っている。ただそれだけのこと。田中俊太郎(現カナタナタ)第一詩集「道路の少年」 「トトとドド」 ドドがいた。ドドはふるえている。目を開けると、もの が見えるということがおそろしいのだ。 トトがいた。トトはドドにこう言う。 「おつまみみたいに食べられる映画があればいいのに ね。」 ドドは目をつむったまま答えた。 「飛行機乗りのおじいちゃんが出るような映画はバター が合うだろうな。」 二人は今夜、月を破壊する。 トトのとなりでドドはまたふるえている。 ドドは弱虫だからぼくがついていなければいけない。で もそれを否定できる程に、ぼくはトトになりきれない。 それは本当は目の前のことだ。 「名前の付いていないものはどこにあるの。」 映画の老人はこう言った。 「一度言葉にしないことを通して言葉にしてみたらどう だい。」 おじいちゃんはいつの間にか眠ってしまった。 「すべてを肯定する力なんて今のぼくにはないよ。」 二人はバスに乗って出かける。 足下を白い猫が通り過ぎていく。 「トト、」 「トト、」 「ねえトト、それは光ではないよ。」上記「トトとドド」、現代詩手帳2015年9月号選外佳作「生きる」含む全15篇 ページ数:48 サイズ:105 × 148序文をnoteに載せているのでご参考までに。序文 https://note.com/hansodeboy/n/n56f85681a91e
カモの飛び方を知ってる?(小説)
群像新人文学賞落選!すばる文学賞落選!なんで気に入られる小説を書かなきゃいけないんだ!もう送るのやめた!面白いよ!「カモの飛び方を知ってる?」 著・カナタナタ ページ数:108 サイズ:113 × 178昔、おばあちゃんのお見舞いに行った時のこと。僕は親戚が苦手だからひとりでお見舞いに行った。おばあちゃんはリハビリセンターという所に入院していた。部屋に入るとおばあちゃんは寝ている。知っているよりもずっと小さくなっていた。起こすのは嫌いだから、僕は静かに本を読んでいた。ふと視線を感じて本を置くと、おばあちゃんが起きている。「あら、どちら様?」確かそんなようなことを聞かれた。僕のことを覚えていなかったのだ。それは人生で初めての経験だった。僕は説明した。「孫です。」「孫?」「おねえちゃんの子ども。」「あら姉さんに子どもがいたのね。」間違って伝わってしまった気がする。でもしばらくしたら、また尋ねられる。「どなたかしら?」僕はまた説明した。さっきよりも丁寧に。おばあちゃんは納得したらしく、嬉しそうな顔をしていた。でもまたしばらくして尋ねられる。「静かな人ね。どなたかしら?」僕のことがわからないらしい。でもずっと親しげな目で見てくる。わからないのにずっと親しげな目をしているのだ。それからリハビリを少し見てから帰った。リハビリセンターのある町には水路が道の脇を走っていて、まだ日が暮れるには時間がある帰り道をゆっくりと帰った。僕はとても感動していた。老いってのは何て美しいのだろうと。覚えているとか覚えていないとか、知識や記憶なんて関係ない。ただ自分との距離だけで計るということ。それが子どものころでも、大人になったころでも、お母さんになったころでも、おばあちゃんになったころでも、出会ってからの時間は重要じゃない。ただ私に親しいかどうかそれだけ。時間も時代も乗り越えて、私という心だけで世界を汲み取るような。それは逆に、時間や時代を乗り越えてきたからこそできるまなざしだ。子どもの無邪気な美しさも老いの美しさの前には敵わない。若さの瑞々しさも、あやうさも、パンパンに膨れた水風船みたいな体でめちゃくちゃにナイフを振り回すような、傷つきやすい鋭さも、老いの美しさには敵わない。何もかも忘れたときに、あんな表情ができたら素敵だ。生きて生きて老いて死にたいとそう思えた。あの感動をちゃんと言葉にしたいと小説に書いて、何度も書き直して、話も設定も登場人物も何度も変わって、それでやっとできた小説が「カモの飛び方を知ってる?」だ。いっぱい変えたけれど、僕がおばあちゃんのお見舞いに行くところだけはずっと変わらずにそこに書かれたままだ。ここに書いたようなシーンを書いた。書いた日が違うから、ところどころ描写も違う。どっちの記憶が正しいのかもよくわからない。記憶の正しさなんて重要じゃない。そのシーンへの親しさの方が重要だ。でも僕は老いていないから、老いた人のまなざしで世界を描くことはできない。だから僕なりのまなざしで描いたつもりだ。