サンバレーホテルのカレー

サンバレーホテルというカレー屋がおいしい。

スパイス一つ一つの香りがする。この食材に対して、このルーに対して、どのスパイスを立たせ、どのスパイスを控えめにし、どのスパイスを抜いて、どのスパイスを増やすか。そういう繊細な取捨選択の上に完成したそのカレーは口に入れてから飲み込み、舌に残る後味や、バスマティライスと合わさったときの豊潤さまで計算されているような、あまりに贅沢な味覚だ。

ぼくはカレーが大好きで、自分でもカレーを作る。結局タマネギとトマトを炒めてスパイスとあわせるベースがしっかりすれば大体うまい。それはあながち間違ってないと思うのだが、そんな浅瀬よりももっと深いところで完成されたその味覚に落ち込んだりもしたのだ。

そこまでカレーを極めたわけでもないのに落ち込むのは、それがカレーとか、料理とか、そういう範囲に収まるような話じゃなくって、何かができるような気がしたところはスタート地点で、その先に道も定まっていないようなところの先に喜びがあるのだということを改めて思い出したからだろう。

なんでもそうだ。漫画を読んだことがない人にとって、漫画を読むというのは難しいことらしい。絵と文字を同時に処理することができないのだ。しかし漫画が読める気がしていても本当には読めていないかもしれない。あそこに描かれた情報量は読み流せる筈がない。だから同時に処理できないことの方が自然であるし、処理した気になっていることの方が疑い深い。音楽を楽しんでいても本当は殆ど聞こえていないのかもしれない。音楽の中にはいくつもの音が重なっていて、その重なりの影に隠れた音を聞き逃しているかもしれないし、耳には可音域があるのだから自分が思っているよりもさらに豊かな音がそこでは鳴っているのかもしれない。

そこまでする必要はない。何にも考えず楽しんでいればいい。音が鳴ったらからだをゆらせばいい。なんでもそうだ。でも自分の立っているところが到達点だとか、もうすぐそこに到達点があるなとかいうのはおかしい。だって到達点などないのだから。そこに何か区切りが見えたとしたら、やっとスタート地点だということだ。そこまでたどり着くことが困難だったりするから、それでゴールした気になってしまうけれど、それはスタート地点だ。何にせよ。

でもそんなの関係ない。楽しんでいればいい。楽しんでいれば、勝手にスタートダッシュを決めていたりするし。

でもなんにせよわかったふりするやつなんて、嘘っぱちだ。

店内の内装もいい。コンクリート打ちっぱなしってあんまりいいなと思ったことがないのだけれど、スペースの取り方と言い、雑さと洗練のバランスがとても素晴らしく、居心地のいい空間を作り上げている。

ただこのお店は予約システムが非常にハードルが高い。お店に直接記帳しなければいけないのだが、ランチなら早朝に、ディナーなら昼に予約しなければ、もう入れない。そのハードルの高さも実はスパイスになっているのかもしれないが。でも大体行列で入っておいしいなんて思ったことがないから、やっぱりここのカレーはおいしいのだろう。

人生で二番目においしいカレーだ。

一番はインドに行ったときに食べたカレーだ。カレーを振舞おうとそこら中にいる日本人を集めているインドのおじさんがいた。めちゃくちゃ怪しい。買い物に付き合っている日本人もいたが、人手が足りてそうだったので、時間になったら行ってみる。家と呼んで想像しないくらい狭い、二畳ちょっとくらいの家。そこは家というより洞穴みたいで、カレーを火にくべ調理するおじさんだけでほとんどいっぱいだ。市場で買った絞めたての鶏を使ったそのカレーはびっくりするくらいにおいしかった。さっき言ったみたいな繊細なスパイスがどうこうじゃない。とにかくうめえうめえとかっ込みたくなるうまさ。最高。インドおじさんのカレーは生活の中で勝手にスタートダッシュを決めていたからできたカレーだろう。

何にも考えずに踊るにしろ、真剣にからだの動きを意識するにしろ、楽しんで踊っていればいい。時に楽しくない作業も、その先にある楽しさを知っていれば踊り続けられるだろう。そのダンスはきっと美しい。

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