感覚器官

見渡す限り人はいない。みんな消えてしまった。死体など見たくないから自然に分解されて塵になるようにした。今吸っているこの空気の中には彼らの肉も含まれているだろう。少し嫌な気持ちになる。しかし元々の世界からして、死者の蓄積のようなものだ。海のにおいは生き物の死んだにおいだ。

世界とは一体何を指していたのだろう。それは広いものなのか。小さいものなのか。私はちっぽけな存在なわけでも、大きな存在なわけでもなく、私でしかない。言葉は何か恐ろしいものに付けられる。名付けなければ得体の知れないもの。理解できないもの。扱えないもの。世界という言葉をつくった人は何を恐れていたのだろう。それを手に入れようとしたのだろうか。世界という二文字で収まってしまう程のものを。

この辺りはスクランブル交差点になっていて、まわりを巨大なビル群が囲んでいる。信号が青にかわり歩行者が歩き出す。人の群が誰一人ぶつからずに過ぎていく。車も事故を起こさずに通り過ぎる。異様な光景だった。

信号だけは相変わらず動いている。赤信号を見つめる。青にかわってから私は歩き出した。

自動車というものが恐ろしかった。誰もが、本当に誰もが加害者になることができ被害者になることができる。それが平然と私の横を過ぎていっていた。それはまるで戦争のようだった。戦争が形になって私の横を通り過ぎていった。

自動車は錆びつき埃が溜まっている。それでもそれは恐ろしい。爆発物だ。ヘッドライトが笑った目のように見える。この景色に音はない。

街からは音が消えていた。いつからか音は電気になっていた。風や雨は音を鳴らさなくなった。私は坂を上る。坂を上りきった先もまた変わらない景色が広がっているだろう。風景は殺されたのだ。

あのウイルスは体液を通して人体を破壊する。生物を破壊する。ウイルスが脳に至ると美しい光が見えるそうだ。そして塵になっていく。私の体液の中に含まれるある成分が唯一の抗体だ。私は生きている。生きているのは植物と私と。

見上げても大きな空は広がっていない。小さくおさまった空が雲を散らしている。坂を上ればもしかしたらこのビルの群がなくなるかもしれない。空が広がるかもしれない。してもいない期待をして歩く。この街に電気が光っていないのは、似合わないからだ。電線を切って回った。だからこの街の広さは知っている。このビルの続きも知っている。

空き缶の転がる音がする。久しぶりに音を聞いた気がした。空き缶は私の足元へと転がって、そのまま坂を下っていく。見上げると君は立っていた。

嘘をばら撒いた。いやそれは本当だったかもしれない。写真に写る世界は大きく変わった。いや変わらなかったかもしれない。わかりにくい言葉でしかもうぼくは喋れない。世界一美しいものを見せると言って、君は森を燃やした。あの大きな赤い花を私は忘れない。あの夜君はいなくなったのだ。

ただ一つ言えるのは私にとっての世界はずっと同じ色をしていたということだ。今もずっと。

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