カモの飛び方を知ってる?

 昔、おばあちゃんのお見舞いに行った時のこと。僕は親戚が苦手だからひとりでお見舞いに行った。おばあちゃんはリハビリセンターという所に入院していた。部屋に入るとおばあちゃんは寝ている。知っているよりもずっと小さくなっていた。起こすのは嫌いだから、僕は静かに本を読んでいた。

 ふと視線を感じて本を置くと、おばあちゃんが起きている。

 「あら、どちら様?」

 確かそんなようなことを聞かれた。僕のことを覚えていなかったのだ。それは人生で初めての経験だった。僕は説明した。

 「孫です。」

 「孫?」

 「おねえちゃんの子ども。」

 「あら姉さんに子どもがいたのね。」

 間違って伝わってしまった気がする。でもしばらくしたら、また尋ねられる。

 「どなたかしら?」

 僕はまた説明した。さっきよりも丁寧に。
 おばあちゃんは納得したらしく、嬉しそうな顔をしていた。

 でもまたしばらくして尋ねられる。

 「静かな人ね。どなたかしら?」

 僕のことがわからないらしい。でもずっと親しげな目で見てくる。わからないのにずっと親しげな目をしているのだ。

 それからリハビリを少し見てから帰った。
 リハビリセンターのある町には水路が道の脇を走っていて、まだ日が暮れるには時間がある帰り道をゆっくりと帰った。

 僕はとても感動していた。老いってのは何て美しいのだろうと。覚えているとか覚えていないとか、知識や記憶なんて関係ない。ただ自分との距離だけで計るということ。それが子どものころでも、大人になったころでも、お母さんになったころでも、おばあちゃんになったころでも、出会ってからの時間は重要じゃない。ただ私に親しいかどうかそれだけ。時間も時代も乗り越えて、私という心だけで世界を汲み取るような。
 それは逆に、時間や時代を乗り越えてきたからこそできるまなざしだ。

 子どもの無邪気な美しさも老いの美しさの前には敵わない。
 若さの瑞々しさも、あやうさも、パンパンに膨れた水風船みたいな体でめちゃくちゃにナイフを振り回すような、傷つきやすい鋭さも、老いの美しさには敵わない。

 何もかも忘れたときに、あんな表情ができたら素敵だ。生きて生きて老いて死にたいとそう思えた。

 あの感動をちゃんと言葉にしたいと小説に書いて、何度も書き直して、話も設定も登場人物も何度も変わって、それでやっとできた小説が「カモの飛び方を知ってる?」だ。
 いっぱい変えたけれど、僕がおばあちゃんのお見舞いに行くところだけはずっと変わらずにそこに書かれたままだ。
 ここに書いたようなシーンを書いた。書いた日が違うから、ところどころ描写も違う。どっちの記憶が正しいのかもよくわからない。記憶の正しさなんて重要じゃない。そのシーンへの親しさの方が重要だ。

 でも僕は老いていないから、老いた人のまなざしで世界を描くことはできない。だから僕なりのまなざしで描いたつもりだ。

 よかったら読んでみてください。


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