「退屈」

昨日と今日と明日は繋がっている。十二時に境目なんて無くて、ぼんやりと続いていく。朝は夜の続きでしかなく、夜もまた。同じ朝を同じ夜を繰り返しているだけで、何も変わらない。そこには違う人が立っていて、温度や湿度が違って、明るさが違う。でもいっしょだ。構成要素が違うだけで、印象は何も変わらない。それに場所の違いってのも無い。旅に出たことがある人ならわかるだろう。身近な場所にあの場所と重なる瞬間があることを。どこに行っても結局いっしょで、ただここに立てば、沖縄にも、中国にも、ソ連にも、ロンドンにも、バナラシにも、ラオスにも、天国にも、地獄にも、宇宙にも行けるだろう。どこに行っても同じ。構成要素が違うだけで、印象は何も変わらない。すべては物質でできている。旅に出る意味なんてない。変わらない日常から抜け出して、同じ景色を見に行って、結局、日常に戻ってきてしまう。つまらない。

視覚の問題だろう。見方を変えればいい。同じふうでなく、違うふうに目を向ければ世界は変わるだろう。映画を見た後世界が違って見えたりする。イヤホン越しに見る景色はいつもと色が違う。でもいつの間にか元通り。で、その内、気づいてしまう。毎日同じように違うことに。そして、違いを探す目は毎日同じ目であることに。そんな虚ろな目をしてどこに行く。つまらない。

自分たちが恐れるものに名前を付けるのが人間である。そうして自分たちの言語に落としめることで安心するのだ。得体の知れないものを記号にして、手元に置くのである。だから身の回りのものに全て名前が付いているのは、恐ろしいものだからだ。赤ん坊に名を付けるのも恐ろしいからである。はっきりとしないぼんやりとしたものが消えていく。街も景色も記号化されて、どこに行っても同じ記号が並ぶだけ。「人」「人」「人」「家」「家」「家」「青」「青」「青」「風」「風」「風」・・・。違うものであるはずのものを同じものに分類して、理解したふりをして、心安らぐ。そうして、段々とつまらなくなる感覚にまで「退屈」と名を付けて、一体何がしたいのか。

文章だって同じだ。新しい文章なんてどこにも無い。全て引用だ。誰も語っていない言葉は言葉にならない。だから、読書が好きな奴なんて異常者に決まっている。ヘロイン中毒より活字中毒の方が余程性質が悪いというものだ。言葉にしただけではまだ足りず、それを羅列して頭に流し込んでやっと安心する。何がそんなに恐いのかわからない。読書は退屈なものだ。退屈な記号を並べて、ご丁寧に語り部の面をして。何を語ろうというのか。語られたことの無い物語など無いというのに。全て同じ話だというのに。

こんな話しを聞いて何が面白い。つまらないなら耳を塞げばいい。叫び出せばいい。考え付くことなんて、誰かが考えたことだ。何をしたってすぐに訪れるだろう、退屈が。「退屈」なんて名前を付けるから、何でもない時間まで退屈になってしまう。人間らしく生きることは、退屈に生きろということだ。死ぬまで欠伸して、死後やっと退屈から解放されるわけでもない。死後がどうあれ、色々な名前が付けられているんだから退屈に決まっている。父親の精子の時から、いやビッグバンよりもずっと前から何も変わらない。「退屈」と名を付けたときから、過去も現在も未来も「退屈」になってしまったのだ。つまらない。そして僕は退屈が好きである。何ていうつまらない落ちでこの話は終わる。
なんてつまらない。

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