佇む

先月、一人の画家が死んだ。彼女は私の友人でもある。

その夜はとても静かだった。訃報は直ぐに公表されたが、朝に近いその夜はとても静かだった。鳥の囀りが聞こえようとする頃、私は呆然として眠りについたのである。起きると、彼女を取り巻く世間は騒がしくなっていた。

彼女の生涯を横断する大規模な個展が開かれるという。しかし彼女が残した作品の数は決して多いとは言えない。その為、彼女の作品の他に、彼女を尊敬する表現者が彼女に捧ぐ作品も併せて展示される。一ヶ月に満たない短い展示期間の中で三度ある日曜日には、彼女に叡智を受けたパフォーマンスが行われる。それは暴力的なものであるだろう。創るという行為自体が暴力に過ぎないのであるから、それは当然であるのだが。彼女の死を摂取し取り込む生き物を私は見たくない。それが如何に美しく人を感動させるようなものであっても彼女の死を利用した創作物を私は見たくない。彼女の死は彼女の死だ。そこから何かは続かない。それはぽつんと取り残されているべきだ。あり得ないことであるが、彼女がもし生きた口でこの展示のことを語るとすれば、「人間精神の健康」などと称して、それを讃えるに違いないが。

彼女の一貫したテーマは自然と人工の接触であった。それは批評家の言説に因るものではなく、彼女に因る言葉だ。「自然と人工が同時代的に空間を占有すること、それが私にとっての絵画なのです。」というのは多くのインタヴューで彼女の語るところである。一つの作品を紹介する。四メートルに及ぶ巨大な紙に黄色い絵の具が塗り篭められている。その中を一匹の蟻が小躍りしている。その黄色はアフリカの砂漠を思わせるような、くすんだ黄色だ。粗い粒子が描く、模様とも呼べない巨大な黄色の中で、蟻が滑稽に踊っているのである。

その絵画はもう残っていない。私の目の前でそれは燃やされた。彼女のポケットから取り出されたライターは、そっと左下の隅に火を点けたのである。私は彼女のそうした暴力的な側面を好まない。

私は作家であるが、彼女について語ることはしない。沈黙という選択をしか私は選ぶことができない。多くの名のない詩人たちは、語ることでしか自らを名付けられないのであるから、それは私の特権でもある。

あの日燃えた火は美しかった。しかし美しいのは火であった。只、燃える火が美しかったということ。そこに彼女は全く関係がない。

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