宙飛ぶテキスト

テキストが宙に浮いている。

紙に印刷された言葉が、装丁を伴って本になると、本そのものが一つの筋として、言葉を先導したりする。行間や字体や空白の取り方、紙の質感、重さ、表紙の手触り。それらすべてが文章を後押しするようにそこにある。それに比べてネットにある文章というのは野ざらしだ。大きさは定まらず、空白にはランダムに広告が瞬いたりする。1ページ目の後に2ページ目が来たり、74ページ目の後に75ページ目が来る本とは違って、そのページに辿り着くまでの道筋は人それぞれで、そのパターンは無限にある。だからこそそれは何よりも純粋な言葉のあり方であるように思う。

ただ言葉だけが漂っている。

だからそれは無防備で、すぐに叩かれたり、燃えてしまったりする。

だからそれは暴力的で、簡単に人を傷つけたりする。

そもそもは伝達の手段として、用いられた紙、それから印刷技術。それはより多くの人にそのままの言葉を伝えるために。では今紙媒体がそのままに伝えることを担うかと言えばそれは難しい。紙で本を読むというのはひそやかな個人的な行いになり、言葉は個人的な言葉に置き換えられるだろうから。ネットにある言葉の多くはそのままの言葉だ。編集者すら立ち入らない言葉。それはあまりに野ざらしだから、あまりに自由に読み替えられるだろう。でもそこにぽつんと孤独に漂う言葉は、「そのままの言葉」に限りなく近い。それは書き手のパソコンの中だけにあった時以上に。

ぼくはネットが得意ではない。だから文章のあり方について戸惑いを覚えている。美しい額縁に囲まれた絵を暖かな部屋でゆったり眺めるのもいい。堅固な牢に囲われた国宝もまた美しい。でも野ざらしに捨て置かれた誰かの絵画が美しいこともまた知っている。

連なりを演出するなら本がいいかもしれない。装丁は映画のサウンドトラック、字体や空白がカメラや照明。美しいワンショットをとるか、一つの映画をとるか。たとえ話はもういいや。

詩のひとつひとつは、裸形の言葉として野ざらしにあればそれは綺麗かもしれない。それらが連なって形を作ったとき、そこにある詩集というのは、またひとつの詩だ。だからそれは別のものだ。

生原稿には書き手のにおいが色濃く漂う。それらの気配も漂白された真に純粋な裸形の言葉。それらを漂流させられる今という時代は、ある詩人が求めたものかもしれない。

日記やエッセイが気配を消したらどうなのだろう。それは日記やエッセイと呼べるのだろうか。

気配は消えないだろう。人が何かを想って文章を書く、その気配自体は消えないだろう。だからそれは野ざらしにされるとそのままにその人を傷つけたりする。

人に読まれようとする日記やエッセイは手紙に近い。死んだ祖父の日記をひとりで読んだとき、それは手紙に思えた。

完全に裸の言葉を書くことができるのか。個人的な日記だって誰に見せるでもないのに誰かを意識しているような気がする。日記をつけて、燃やしもせずに残しておくのは、誰かに見られるという意識がどこかにはあるということな気がする。そうでなければ紙になんて書かなくていい。覚えておこうとするからか。何のために。誰かに話すためにではないか?

だから完全なる裸形の無防備な言葉を書くというのは相当に難しいことだ。それをそのままに漂流させられるならば、それはきっととても強い。

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