噴水通りはきらきらとして(ウラジオ日記15)

歩いていると変化するBGM、かわいい欧風建築が並ぶ、綺麗で歪みのない壁、きれいな灯り、にこやかな人通り、演出された噴水。ディズニーランドみたいだ。

ディズニーランドみたい、とはどういうことだろう。ディズニーランドが色々な国の街並みを写しただけなのに。それはきれいな、汚れのない、生活感のない、作り物の街並み。だから生活を忘れられる場所。ウラジオストク市民にとって噴水通りは生活を忘れられる場所なのかもしれない。

「絵の具みたいな空だ」とか、「写真みたいな景色だ」とか、「人形みたいにかわいいね」とか、そういう逆転した言葉は何だか面白い。空の色を再現しようとして作られれた絵の具、この美しい瞬間を残そうとして作られた写真、かわいい子どもの姿を永遠に残そうとした人形、それが浸透して当たり前になって、平面的に見えるようになってからしかその言葉は使えない。「ロボットみたいな人だね」と今言ったら悪口になってしまうと思う。でもロボットが当たり前に浸透して、ひっかかりのない言葉になったらそれは単純なほめ言葉になるかもしれない。だから逆転した言葉の中には大きな時間が流れている。どんな言葉にも大きな時間が流れている。言葉が伝わるというのはその言葉が共有されているということで、誰も使ったことのない言葉はなく、言葉はすべて引用で、言葉は言葉であるということだけで歴史だ。物語をつむぐまでもなく、言葉がそこにあるというだけでそれは物語だ。想像力の問題。でもそんなことをいちいち想像していたら文章なんて読んでいられない。頭がおかしくなってしまう。そういう態度で言葉と向き合うのが哲学だろうか。哲学者なんて頭がおかしい。ほめことばとして。

だから大きな時間を気軽に感じられる逆転言葉はいい。これから「VRみたいな部屋だな」とか、「クローンみたいにかっこいいね」とか、「AIみたいな頭してるね」とか「君の細胞はまるでiPS細胞のようだ。」とか言うようになるのかもしれない。

恋愛も友情も細胞レベルになったら面白い。メガネをかけたら細胞が見える。今はメガネやコンタクトが当たり前になったから求められる視力がある。その昔と今では、見えづらさの基準は違う気がする。望遠鏡や、顕微鏡で、本来見えなかったはずのものが見えるようになって、世界は大きくゆらいだ。そういう革命はきっとこの後も起こるはずで、視力も視界も、その時代ごとに意味の変わる言葉だろう。容姿でなく細胞で描かれる恋愛ドラマが月曜9時に流れていて、「君の細胞はまるでiPS細胞のようだ。」とか「あなたの細胞はまるでSTAP細胞のようね。」とか言っている。

噴水通りを進むと一番奥に噴水広場がある。そこの噴水は大きく、流れる音楽に合わせて水しぶきがダンスを踊っている。それを眺めるように大きな階段がある(ローマの休日みたいな)。音楽はロシアの古い宮廷音楽のような感じで、とても雰囲気がいい。ライトアップされた噴水の横をカップルや親子が通り過ぎる。うっとりと眺めるような人はあまりなく、でもそれはいつまでもぼけっと眺めていられるようないい場所だ。

視力も視界も変わったら、噴水通りのきらきらはどう見えるのだろう。「どう見える」という言葉自体が古くて、視覚で世界を感じようとは思わないのかもしれない。それでもここはきらきらとしている気がする。何だか華やいでいて、それでも落ち着いていて、休日のような時間が噴水通りには流れている。

噴水広場の奥には海が広がっている。今は夜だからまっくらな海だ。噴水広場の明かりは砂浜までは照らさない。よく見るとそこにはカップルと思しきシルエットが、いくつか寄り添って座っている。

サポート頂けると励みになります。