生きているだけで優勝

ちゃんと内側に暗さがある。暗さがあるからこそ明るさに説得力がある。ただ明るいだけのものなんてきっとなくて、明るさにはその陰がきっとあるだろう。それがなければ、近づくことなんてできない。自分の中にある暗さやドロドロとしたものを、知っているからこそ、明るさに感動する。暗さを知っているからこそ、明るさが目にしみる。涙が出る。

太陽の黒点をふと浮かべる。あれは明るいまわりの火よりも更に熱く燃えた火だ。光は強すぎると、黒くなる。暗くなる。でも目を上げて見つめてみればそれは真っ白に輝く太陽である。

また眉村ちあきの話をしたい。(眉村ちあき知らない人は前の読んで!)

今日は新木場STUDIO COASTに3rdワンマンライブを見に行った。

何て素晴らしいフルエンターテイメントだったろうか。

最高。最高の高。

テイラースウィフトくらい最高。ディズニーランドくらい最高。いやいやもっと最高。

音響スタッフが付いてから、スピーカーから流れる音は圧倒的に進化していて、眉村さんの頭の中ではこんなにかっこいい音が鳴っていたのかと感動していたのだけれど、今回は

という感じですさまじかった。今まで聞こえてなかった音が聞こえてきて、メソ・ポタ・ミアとかすごかったし、その感動している間際に畳み掛けてくる炎の演出にまたやられる。(炎の演出までの映像リンク

​低音ばりばりで、ちょっと前に発表した新曲の「おばあちゃんがサイドスロー」もかっこよかった。(もちろん全部かっこよかった。)

光の演出もやっぱりすごかった。「開国だ」なんてバッシリはまりすぎてしびれるし、

その演出リンク

登場の時の影の演出はめちゃくちゃキマってた。

オープニング映像リンク

そこからの東京留守番電話ップ(影の演出かっこいい)

オープニング映像で恐竜が街を破壊している。そこに今までのMVからその時の衣装を着た色んな眉村ちあきが集まる。テイラースウィフトのMVの最後を思い出す。

子どもダンサーの登場。そのダンスのエンタメ感がまた確かに素晴らしい。ポップスターの多幸感にやられた。この辺りだったか泣いちゃったのは。

リンク

queeeeeeeeeen!の歌詞が違う意味をまとい、恐竜を倒す合言葉になる。そういう転換もまた素晴らしい。

吊るされたクリトリックリスもめちゃくちゃ面白かった。


おじさんを歌う眉村さんの情念は、八代亜紀くらいすごいと思う。

でっかい会場でスケール感が増して、見えてくる世界。彼女の頭の中で鳴っている音はこんな小さい会場では収まらない。そんな感じがする。弾き語りが本当にかっこいいと思ってファンになったのだけれど、見れば見るほど、トラックメイクが凄くて、それがちゃちなスピーカーでは表現できないほど豊かな音を鳴らしていて、会場がでかくなればなるほど、音響や照明のスタッフ陣が組まれるほど大きくなればなるほど、その音の豊かさが浮き彫りになる。彼女のスケールが大きくなればなるほど、僕たちはよりかっこいい音を聞くことができる。それだけは確かだ。

今日はじめてやった新曲「緑のハイヒール」は本当にいい曲で。「緑のハイヒールを履けば―――涙を隠そうとして下を向いても目が良くなる」なんて歌詞書けない。それで最後「緑のハイヒールもう履かなくていいや」だってさ。なんて素晴らしいんだろう。僕は詩を書くのだけれど、嫉妬する。ポエムという言葉は半ば蔑称のように使われるけれど、ポエムを失ってはいけなくて、でもポエムと言われたくはない。とか色々意味もなく煩悶しちゃうことがばからしい。彼女は身の回りの感慨を詩にする。でもそれはポエムと呼ばれることはないだろう。そのバランス感覚はとんでもない。

上には上がいるし、私以上に私はいないし(コカコ○ラのスリッパ壊れた)

こんな詩は書けない。

彼女のフルエンターテイメントはちょっと背伸びしてみせることの素晴らしさやかっこよさを見せてくれる。僕もちょっと背伸びしてみたいと思う。

どうやったらメジャーになれるんだろうな。(自分の話)
背伸びの仕方がわからない。
例えば好きな小説や詩はいっぱいあるけれど、それに自分の作品が劣るとは思わない。全然肩並べられるものを書いてるつもりで、それは別に背伸びでもなんでもない。
名の売れた人しかできないことをやってしまえばいいのだろうけど、果たして何をやればいいのだろうか。(自分の話終わり)

終演後、会場の前にはいっぱいのファンが残っている。帰れずにいる人々。みんな心なしか浮き足立っていて、でも帰れずにそこにいる人々。それが何だかとても素敵に見えて、感動した。最後眉村さんが裏口から出てきて、みんなに手を振って帰っていった。バイバイと言いながら帰っていった。それをみんなで見送った。みんなもバイバイと言った。それで車が走り去ると、みんな立ち上がって電車に向かう。バイバイと言う為だけにそこに残っていたと思うと、また違う感動をする。

彼女の昔のライブ動画を見てみると、何かに苛立っているような暗さ?があって、それは今の底抜けの明るさ?とは随分違って見える。でもどちらも眉村ちあきである。それからいくつか順番にライブを見てみる。ライブハウスにはお客さんがだんだん増えていて、眉村さんの表情はだんだんと明るくなっていく。眉村さんはだんだんとのびのびと歌うようになる。そしてどんどん増えていく曲は、発表される度に新たな顔を見せ、そしてそれはどれも素晴らしく、それでまたお客さんが増えていく。

お客さんもスタッフも、眉村さんにやさしい。すごい!とほめる。でもそれはおべっかではなくて、本当にすごい!と思っているから声が出るのだ。

許される場所がある。ということはとても大切だ。それでこんなにいくつもの名曲が生まれるのだから、それは証明されている。

味方がいる場で、のびのびと、何かをすることは心地よい。それは当たり前だ。でもそういう場は中々見つけられない。でも味方と言ってくれる友人の前でのびのびとしてみるのもいいだろう。そういうことはとても重要だ。何かを創る上でもとても大切だし、何も創らない上でもとても大切だ。

SNSで何かを言うことがためらわれるのは、のびのびとできないからで、それと同じような理由で、何かをいうことがためらわれる場面はいっぱいあるだろう。でものびのびとできたらいい。

眉村さんのライブではファンものびのびとしている気がする。僕も含めて。たとえばみんなで手を左右に振るような演出がある。普通のライブではみんんがやっているからやるというような、ちょっとした全体主義的な空気を感じてしまってためらってしまう。でも眉村さんのライブでは、みなが思い思いに手を振っているだけに見える。これは感覚的なもので何故そう思うのかはうまく言えないのだけれど。周りに合わせて手を振ったり、周りの目を気にして手を振ったりしているのではない。のびのびと思い思いに手を振っているただそれだけ。

川沿いを歩く。夜、河沿いを歩く。街頭が水面に映っている。白く浮かび上がっている。川の流れが見える。流れにゆれる白い光。白い光はゆれて、ゆれて、でも流れてゆくことはなく、そこに留まっている。流れてゆけずに、ゆれて、留まっている。

光は波動だ。光はゆれている。

流れてゆけずに留まっているものも、きらきらと輝いている。

いつか流れていくのかもしれない。いつか消えてしまうのかもしれない。

でもその光は川面の上できらきらと今ゆれている。

その光がみなの目に留まり、そのきらきらが黒い瞳に映りこむなら、それはとてもすごいことだと思う。

眉村ちあきは流れていこうとしてるんじゃなくて、ちゃんとそこに居て、そこからきらきらと輝いている。それでその光はどんどんと光を増している。水面の上の光だったそれは、ただそこにある光となって、光の奥に目を凝らすと水面があるというような。それは色々なものへのやさしさでもある。彼女が輝くことが、誰の目にも留まらないまま確かに輝いてる何かを思い出させてくれるような気がする。

最後に、帰り道言葉にならない思いを、そのまま殴り書きのようにメモしていて、そこに書いてあった言葉が何のことかはよくわからないけど気に入ったので書きます。

「生きているだけで優勝!」

(もう動画上がってるし、リンクいっぱい貼れたし、すごい!)
(こういう動画ひとつひとつが眉村ちあきのファンを作っていってると思うのだけれど、このファンとの協力関係は意外と新しいよなあと思いつつ、いつもありがとうございます。)

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