退屈と愛着(ウラジオ日記29)

朝起きると、外はまだ暗く街灯が灯っている。しかしそこかしこに朝の気配が漂っていて、もうすぐ夜が明けることが知れる。シャワーを浴びて、歯磨きをして、部屋に戻ると荷物をまとめる。外を見るとちょうど街灯が消えたところで、町はまだ暗い。他にも誰か寝ているから、静かに荷物をまとめて、ホステルを出る。

名残惜しく町を眺めながら、道を歩く。バスがちょうど来たので飛び乗ると、通いなれた道が過ぎていくのを見ている。短い旅行でも帰る頃には町に愛着がわくもので、なんだか目が離せない。長年過ごした地元には愛着がないのに、不思議なものだ。

薄暗いウラジオストクを背に電車が出発する。空いていたから、どこに座ろうか迷って、先頭車両の右の窓際で足をのばす。車両に自分以外の客はいない。鼻歌を歌う。

ウラジオストクの隣町から人が一気に乗ってきて、車両はあっという間に満席になる。隣には二人連れのおばあさんが乗っていて、やさしい笑顔を向けられる。日本だったら飴でもくれそうな雰囲気。日本のどこかの電車でみかんをもらったことを思いだす。空はやっと明るくなってきたが、車窓は退屈だ。今乗っている電車はエレクトーリチカと呼ばれるもので、シベリア鉄道の線路を走る近郊用の電車だ。つまり、車窓の景色はシベリア鉄道から見る景色と同じということだ。期待値も上がる。次の駅では布を売るおばあさんが乗ってくる。おそらく手織りの、靴下やマフラー、ひざかけ、スカーフ。ちょっとだけ「世界の車窓から」感が出てくる。しかし車窓は退屈に町を抜けるまま。朝日と海を期待していたが、どうやら海沿いの窓辺は反対側だったようだ。

トイレの方に歩いていく男性が誰かに似ている。カラックスの映画と言えばあの俳優。こないだもクラブでジュリエットビノシュの名前が中々出てこなかった。そうだ、ドニラヴァンだ。トイレから出てくると、全然似ていない。勝手に肩透かしを食らう。

ぼくは「ポンヌフの恋人」という映画が大好きだ。一度不思議な体験をしたことがある。それはクリスマスの頃に名画座でひとり見たときだ。カップルがふたり上映中に席を移動して、ぼくの前の席で合流している。なんだか楽しげだ。小さな劇場にはそのほかにもう一人おじさんがいるくらいで、お客は少なかった。何度も観た映画に安心して目を向けていると、知らないシーンが出てくる。それからも何度も知らないシーンが出てくる。何回も見ているのにそこに映っているのは知らないシーンばかりで、まったく新しい映画を観たような気がした。そのどれも見たことがないのだ、何回も見返しているというのに。なんだか魔法にかけられたみたいだった。

立ち上がって、海沿いの車窓をカメラに収めるとまた席に戻る。海に朝日は差さない。朝日はこちらの大地の方から昇ってきた。木々のシルエットをはっきりと映し出すように赤い朝日が昇っている。誰も車窓を見ていない。それはとても綺麗だったけれど、特別なものを見ているような気はしなくて、ぼくも気づくと車窓を見なくなっている。朝の電車はけだるいものだ。本を読み始める。やっと白痴を読み終える頃には着いているだろう。

ウスリースクに着く。駅からまっすぐにのびたプーシキン通りを進むと市街に着くらしい。お腹が空いた。

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