道路の少年

 私がはじめて編んだ詩集のタイトルは「道路の少年」という。その序文には「道路の少年」というタイトルが意味するところが書かれている。

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 道路には少年がいる。それはいつの時代も変わらない。道路にいる少年は、道路に見えないものを見る。それは地獄のマグマだろうか、アマゾンの鰐だろうか。屹度、そこには何かが蠢いている。そしてそれは本当だ。我が物顔で走り去る自動車の群れよりも、それらは確かにそこに存在しているのだ。

 道路とは車の道ではなく、人の道であった筈だ。その時、道路とは道であると同時に広場でもあった筈だ。そして広場とは遊び場でもあり、少年の蹴るボールが跳ねる場所でもある。自らの足だけでは進めない場所を切り開き、老いた人も通れるような道を通す。道路とはどこまでも弱い者の為にあるものだ。少年は何も持たない。唯ひとつ、道路を手にするのである。

 しかし少年とは何者だろう。私は真っ先に主人公を思い浮かべる。それは十五少年漂流記やトムソーヤの冒険や、それらの児童小説の所為であろう。少年には冒険があり、物語がある。誰もが幼少期、少年であった。無論、少年とは男の子のことではない。赤毛のアンも、不思議の国のアリスも少年である。

 そしてそれらの少年と出会った私に残ったのは、物語の1シーンでも、素敵な台詞でも、夢のような出来事でもない、それを見た少年のまなざしである。そして不思議なことに、そのまなざしはどの小説にも書かれていないのだ。どこにも書かれていないまなざしが、私の胸の内に残るのである。

 少年には活気がある。だから私は忘れてしまう、少年は弱いということを。少年は弱いと呼ばれることを恐れる。少年という字には強いという言葉の方が似合う。故に少年は弱い。弱いというのはどういうことだろう。死を目の前にしているということだ。だから少年は鋭敏である。簡単に死んでしまえるからこそ、少年は冒険をし、夢を見るのである。

 少年が少年で失くなるのは何時だろう。その言い方は間違っているかもしれない。少年は自分のどこかに生き残っている筈なのだ。死がある限り。

 道路の縁石と言われて絵が浮かぶだろうか。縁石とは車道と歩道との間に渡された石造りの段。均等にオレンジ色の反射板があしらわれたあの段差。ある人は腰掛け、ある人は躓き、ある人は素通りする、石造りの境界線。あれを縁石と呼ぶのであるが、果たして少年は縁石を前にして何をするだろう。綱渡りをするのである。車道と歩道の間を不安定によろめきながら進むのである。それは正しく「道路の少年」であろう。

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以上、「道路の少年」より序文でした。

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