aikoが好きだ!

aikoに最初に出会ったのは中学の終わり頃で、なんだかこの人は他と違う!わかんないけどめちゃくちゃすごい!と思っていた。ちょうどaikoが10周年を迎えて、記念にアルバムの初回版がすべて復刻されていた。ぼくは小学生から貯めていたお年玉と、高校の入学祝いを使って、全部のアルバムを買い、どっぷりとaikoに浸る。

アルバムを聞いていると、花火やカブトムシが入っている桜の木の下やボーイフレンドが入っている夏服、アンドロメダの暁のラブレター、キラキラが入っている彼女、それらのアルバムはきらきらとしていて、比べて最新アルバムの秘密は少し落ち着いていて、多感なぼくには物足りなく感じた。(今聞くと名アルバム)それでもaikoはすごいという気持ちには変わりなかったのだけれど。それでちょっと経った頃にmilkがリリースされた。まだきらきらとした曲を送り出すのかよ!鳥肌が立った。

aikoの曲の中で、aikoの歌声は、跳ねている。飛んだり跳ねたりして、踊りまわっている。そのことがとても美しい。

理論で言ってしまうのなら、それはブルーノート進行がどうとかとか、そういう話になるのかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。そういう制約から逃れて、こどもが歌う鼻歌のように自由に彼女の口からメロディが吐き出される。aikoが「息を吸い 声を吐く」(「予告」)それが歌となる。それだけが絶対。

誰とも違うaikoのメロディ。孤島。誰も寄せ付けない孤独。それがポップスという真逆の場所で輝いている奇跡。いや奇跡じゃなくて必然。

旋律と歌声がタンゴを踊るように時に寄り添い時に離れ、互いを引き立てあう。

孤島で踊られる絶対のダンス。

悲しい歌を明るく歌う様の詩性。ライブやテレビで彼女が歌うのを見ると、くるくると回り、髪を乱し、足を蹴り上げる。それでも物足りないように、足をうずうずさせている。手で足を押さえたりしていて、その手を離してしまえば空でも飛んじゃいそうなくらいに、足がうずうずしている。それでまた跳ねたり、駆けたりする。その様子はまるでaikoの歌のようだ。aikoそのものが音符のように跳ねている。

世界に歌が溢れる。過去から未来まで続く五線譜にメロディが描きこまれていく。

aikoは本当に歌うのが好きなのだなと思う。それが伝わるからaikoのライブはいい。

aikoはおしゃべりも面白い。ラジオも最高だし、ライブMCも面白い。それすら僕には歌に聞こえる。抑揚、リズム、間、ぜんぶ心地いい。

ラジオの終わりは必ずこんなような文句で終わる。

「笑うのが苦手な人 人混みが苦手な人 会社が苦手な人 学校が苦手な人
……な人 ……な人 ……な人 明日もいい日になりますように」

みんなそれぞれ違ういろんな人がいるということをaikoは忘れない。こないだのaikoからのメール(Team aikoという公式サイトを通してファンにメールが送られてくる)の末尾にはこんな言葉が置かれていた。

いつもありがとう
おやすみーおはようーまたあしたー

そのメールをいつ読むかはわからない。いろんな生活があって、いろんな時間軸がある。それぞれがそれぞれに生きている。そのことをaikoは忘れない。

みんながそれぞれ違い、それぞれに生きている。それなのに同じ歌手のことを好きになっているという奇跡。これはすごいことだなあ。

aikoをフェスで見たい。フジロックとかで見たい。スカパラとコラボの流れも手伝って、何か出ないかな。(今年フジロック開催できるのかなあ。)

好きな曲が多すぎる。シングル曲もアルバム曲もいい曲が多すぎる。困ったもんだ。aikoの曲だけかけるラジオがやりたい。無条件に身体がうずうずして、うきうきして、ふわふわとしてくるのはaikoと雪くらい。雪が降ったときに喜び庭駆け回る犬みたく、aikoが聞こえてきたら、世界を駆け回れる。


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