踊ル者 〜ツァラトゥストラはこう言った
ALSO SPRACH ZARATHUSTRA
Friedrich Nietzsche
「嘔吐!嘔吐!嘔吐!」
「否!否!三たび否!」
ニーチェくんは、あいも変わらずディスってる。
そう、ぼくみたいなんだ。
ポエム表現多発、歌は長いでわかりにくいったらない。
ただ、ぼくは元気付けられる。
ぼくは都合よく彼にたくさんの「金言」をいただいたけど、これは「ぼくにとっての」徳であって、誰にとってもいいわけじゃない。
ただ、彼が口を酸っぱくしていうように「ぼくの」徳であることが大事なのだから、忘れないようにここに書き留めておこうと思う。
彼は「踊る者」が好きだ。
ぼくも「踊る者」が好きだ。
そう、「重力の魔」に屈しない者だ。
彼らはただ軽い身体を持っているということではない。
ぼくは知っている。
ぼくは、昔、バレエを習った事があるからだ。
そう、「踊る」バレエだ。
バレエを踊る少女たちは美しい。
若木のようにみずみずしく細くしなやかにしなる身体。
レッスンで着る彼女らのお揃いのTシャツの背中に「道」と書かれてたっけ。
レッスン風景だけでも誰が「高みを目指すもの」かがわかるだろう。
なぜなら、バレエというものは己との戦いに挑んだものだけが高みへと登れるからだ。
「私はあなたじゃないのだからあなたをよくしてあげることはできないのよ、あなたはあなた自身でよくならなきゃならないのよ」
少女に、先生はこういった。
いくら恵まれた外見を持っていても、やる気のないものを高めることはできないのだ。
バレエがえげつないのは、そもそも外見の占める割合が非常に高いことだ。
小さな顔、長い手脚、柔軟な骨格。
けれどそれを全て持つものであっても、それだけでは何者にもなれないのだ。
バレエは妖精さんの踊りではない。
まるでか弱く儚げに見える彼女たちの踊りは屈強な筋肉と精神を要する。
「妖精のように」踊るために彼女らは毎日厳しい筋トレをする。
筋トレといっても、ムキムキだけが筋トレじゃない、インナーマッスルだ。
一見地味に見えるバーレッスンという筋トレを毎日毎日繰り返す。
他から見ると、非常に楽そうで、無意味なものにすら見える。
けれどバーレッスンだけで汗は滝のように流れ出すし、時には筋肉がつったりする。
なるべく肉体に負荷をかけないように体重を極限まで落とし、呼吸に気をつける、無駄に筋肉を太らせないように上へ上へ引き上げる。
彼女らの身体は丈夫な骨と柔らかな筋肉でできている。
背中を見てみろ、筋肉の「羽」が生えてるだろうて。
バレエを習うと痩せる、と勘違いする人がいるが、体重は増えるだろう、なぜって筋肉は脂肪よりも重いからだ。
そんなバレリーナの毎日こそは超人的だと思う。
彼女らは自分の意志で己の限界を超えたものを生む。
うまい子ほど先生に厳しく叱られる。
彼女は涙を流す、悲しいのではない、悔しいのだ。
できるであろうことができない自分に腹を立てているのだ。
そんな美しい彼女がカレシと別れた時、「なんで?」ぼくは聞いてみた。
「俺とバレエとどっちが大事なんだよ!?って聞かれたから。そんなのバレエに決まってるじゃん、って。」
ぼくの大好きなバレリーナ、シルヴィ・ギエム。
日本贔屓の彼女は何度も日本で公演をしたため、ぼくも2度ほど生の彼女を見た。
演目は「ボレロ」だ。
これぞ、「神の踊り」だと思わされる。
丸い円盤の上で彼女は踊る、たった独りで。
逃げることはできない、周りは「賎民」に囲われている。
自らの意志で「神」を演じ、その閉ざされた円盤の上で踊る。
彼女はぼくの「神」だった。
彼女はマドモアゼル・ノンだ。
嫌なもんは嫌だ、なんだ。
あるドキュメンタリーで舞台裏が映った時、他のバレリーナが楽しそうにおしゃべりしたりしてる中、彼女は独り、淡々とストレッチをしていた。
張り詰めた孤高の空気が「頂点にたつ者」を思わせた。
舞台の前の「瞑想」なのかもしれない。
全ての責任が己にかかっている「恐怖」。
その「恐怖」と向き合っていたのかもしれない。
ぼくが彼女が好きなのは、彼女が始終「自然体」だったから。
彼女は自分を飾ることをせず、自分らしくあった。
上がりすぎる脚を下品だと囁かれても彼女は力強く堂々と自分を踊った。
女とも男とも見える中性的な人だ。
そんな彼女は50歳で引退し、バレエ会から全く姿を消した。
最後に見た彼女の映像は、彼女が彼女の愛犬のどでかいホワイトシェパードと雪の中戯れる姿だった。
きっと彼女は動物に好かれるだろう。
動物のようにピュアなヒトのように思える。
ぼくもあのように在りたい、と思ったもんだ。
残念ながらぼくは非常に頭が悪くうまく踊れなかった。
なかなか振りを覚えられず、リズム感もおかしかったのだ。
けれど、ストレッチは誰よりも頑張った。
もともと股関節が外向きではなく筋肉も硬かったぼくは信じられないほど身体が硬かった。
けれど、脚が上がらないのが嫌だったので家でこっそり柔軟に勤しんだ。
執拗に続けた結果、開脚が気持ちよくできるようになり、そのおかげで脚が高く上がるようにもなった。ガンダムみたいにガチガチにはった肩もなだらかに下がった。
そんなぼくはセンターよりもバーレッスンが好きだった。
みんなはぼくに「身体が柔らかくていいな、うらやましい」といったさ。
もちろん無理したせいで膝を痛めてしまったこともある、そんな時も彼女がいってた「身体に感謝し、いたわれ」が身にしみた。
ニーチェくんもそういったさ。
ぼくはどのように伸ばし、どのように筋肉をつけたら自分の身体を守れるかを学んだ。
最近もポウくんと走りすぎたのか膝の痛みがひどくなった、しゃがむこともできないほどだった。すると世間は「歳だからしょうがない」とヒアルロン酸注射だとか、サプリメントを勧める。「他力本願」なんだ。
思うに、ニーチェくんも「他力本願」は大嫌いだと思う。
己の大切なものを他人に任せる愚かさよ、だ。
ぼくは病院に行かない、膝をいたわりながら、無理せず、急がず、うまいストレッチと筋トレする。
するとだ、今は、毎日5km走っても、ぴょんぴょん跳ねても、ゼンゼン痛くない。
弱いところには筋肉をつけて守ってやることができると知った。
「さよう、さよう」
ぼくもこのど田舎に逃げてきた。
ここでは自分と他人を比べることも無くなった。
そう、ぼくがバレエ向きでは全くなかったように人間、向き、不向き、が在るのだ。
ぼくは都会に不向きなのだ。
これは努力してどうなるもんでもないし、どうにかしたいとも思わない。
嫌だから、嫌なのだ。
我慢と努力は違うのだ。
不向きなことを自分を痛めつけてまでやる意味はない。
むろん、ぼくは弱き半端者の「賎民」だけれど、ぼくの信ずる神さまたちはぼくにひどく重要なことを教えてくれた。
きっと「みんなと同じ神」だけ祀ってたら得られなかった教えだ。
神さまたちは見えないけれど、「教え」はいつも聞こえてくる。
シルヴィー・ギエム、グレン・グールド、コンラート・ローレンツ、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル。。。そして愛するポウくん。
ぼくはぼくの神さまたちからぼくに必要な「よろこび」をもらった。
そして君といるときぼくは最も「よろこび」を感じた。
ぼくのポウくん、昨日は君の誕生日だった。
君が見えなくてとても淋しい。
君の大好きな雪が華みたいに降ってくる。
君の「よろこび」が見えなくて悲しい。
君とぼくはよくふたりで踊った。
君のように、ぼくは「踊る者」で在りたい。
ぼくには神さまたちがいて、彼らの声が何度も何度も繰り返しぼくの脳髄にこだまする。
ツァラトゥストラはこういった。