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変ワラナイ者




「あいつを変えようだなんて所詮ムリなんだ」



ぼくのパパはただのブタさんに見えるけれど、何らかの社会不適合的な要素があるのは間違いない。
ダメだと言われたことをやっちまうし、人の言うことをゼンゼン聞かない、「なんでダメなの?」が口癖で、復讐心も強い。
ゆえに、よく仕事をクビになる、ぼくの子供の頃は自営業だったから問題なかっただけなんだ。

子供の頃、ぼくんちは時代遅れのいわゆる「亭主関白」の家庭でオヤジ様は絶対の権力を持って君臨してた。
滅多に家にいないくせに、たまに早く帰るとぼくらを顎で使い、観たいアニメはことごとく野球とニュースに変えられた。反抗するとビンタに説教だ。

そんなオヤジ様を好くはずもなく、オヤジ様不在を願う子供らだった。
けれど、月曜日だけは別だった、そう、少年ジャンプの発売日なのだ。
月曜日、コミュ障のオヤジ様は恭しくジャンプを抱え、早々に帰宅する。
すると、ぼくらはへへーと拝み、「お帰りなさい!お父様!」と言ったもんだ。
まあ、彼の名誉のために言っとくと、執拗な暴力野郎でもないただのコミュ障オヤジは子供と動物は好きなのだ。

そんな今まで接触の薄かったコミュ障オヤジと再び同居する羽目になった中年ぼくにいろんな悲劇は降りかかる。
大人になったぼくは彼の挙動の一々に腹を立てたもんだ、人をイラつかせるのを楽しむオヤジなのだ。
ぼくは逐一憤慨し、たびたび殺意まで芽生えたもんさ。


イヌを飼ったりすると、思うんだよね。

こいつ、なんでいうこと聞けないんだろう?
なんで何度言ってもわからないんだろう?
なんで嫌がらせのように同じことするんだろう?

これは意図が伝わらないだけなのか、はたまた反抗なのか?

つまるところ、オヤジもイヌもおんなじってこと、ぼくは自分の意にそぐわない者にイラつき、何とか自分に合わせようと目論むのだ、そう、みんなジコチューなのだ。
いったいコミュ障は誰なんだろう?

結論から言うとだね、「他者の性質を変えるのは不可能」だ、そう、「人は変わらない」のだ。
本当を言うと絶対不可能ではない、けれど、他人を変える忍耐力と熱意のある「素人」はそうそういない、そう、それは様々な知識を要するプロフェッショナルな仕事なんだ。

この世にはいろんな性格のヒトがいる、イヌも然り。
なぜ、そのようにいろんな性質が生まれるかというと、遺伝や感覚機能、環境や運、とても複雑だ。
そしてすでにその複雑な学習を途方もない時間続けてきているってもんだ。


ぼくがポウくんに出会って、彼のなんたるかを形成しようと目論んだとき、どでかい彼はすでに6ヶ月、人間で言うなれば5〜6歳だった。
そう、この時点で彼は土台となる「我」をかなり形成していた。
けれど、ぼくらは人間社会で生きていかねばならぬため、ぼくは彼にいろいろ教えてやる必要があったのだ。

ドッグトレーニングを齧ってみる、すると、イヌの行動を決めるのは経験、刺激に対する反応の反復、それによってこちらの望む行動を増やし、望まない行動をなくすことも可能だ、と知ることになる。

よくある練習に「ぼくをみるといいことがある」がある。
アイコンタクトを促すために、名前を呼び、イヌがこちらをみるたびに褒めるもしくはおやつをあげたりするというポジティブなイメージをつける、それを何度も繰り返すとイヌは意識的にこちらをみるようになるってもんだ。これは互いに心地よいコミュニケーションを育む、互いに相手を意識するようになる。


人間様の行動だってこんな感じに形成されてる、長い時間かけてね。
その自然がする仕事を人間がやるとなると、ストーカー並みの観察が必要になる、秒単位で、彼らの反応をみるのだ、そして絶妙なタイミングで人工的に刺激を与えるのだ。
ぼくにそんな神業が可能なはずもない、ドッグトレーナーにはそれができる、ゆえにプロなのだ。

ドッグトレーニングのやり方はヒトにも通用する。

刺激と報酬のスピードを加速させ、執拗に反復し、報酬をランダムにする、と「反射」レベルまでになり、無意識に行動するようにもなる、スロット中毒者の出来上がりだ。。

目の前にいる闇のメス、リルはイヌの中でも高速の世界に生きているゆえ、刺激に対する反応が早く、いろんなことが無意識レベルになりやすい。
こう言う輩はきっとトレーニングが入りやすいし、アジリティーなんかのスピードを競うものが得意だろう。

対して、神さまポウくんときたら、ものすごくマイペースなおっとり者だった。同じ号令をかけてもリルのように素早く反応しないし、ビビッと動きもしない。
号令をかけても彼は考えている、何やら考えている、そしてやってみてもいいと結論する、もしくはやりたくないと表明する。

果たしてこれはコミュ障なのか、反抗的なのか?


高速リルを見ていると、現代社会の高速化を思う。
デジタル高速化することで、刺激に対する報酬も高速化し、考えることも反射レベルにまで高められる。
そう、回転が速いのだ。
リルはぼくの号令をまあよく聞くだろう、反応は非常に素早いだろう、けれど、彼女は考えているのだろうか?
そう思うのも、彼女の反応が素早すぎるのだ、こちらには都合よく。
こんなふうに反応が速いとかっこいいし、こちらも気分がいい。
ぼくは「待つ」必要がなくなってくる、ポウくんの時に散々鍛えられたものだ。


無駄に長生きの人間様は、形成時間がおそろしく長く、複雑だ。ゆえに根が深く修正が難しい。それでも「知識」があれば操るのは可能だ。
他者が自分の思惑通りに動かなかったとき、「支配」するのが一番手っ取り早い。「罰」は即効性があるのだ。だから人間社会にも「罰」が適用される。「この行動をすると痛い目にあう」は本能的に避けたくなるもんだ。
けれど、このやり方はネガティブな何かを生む、面白くないのだ。

もし、「罰」で支配するのなら、「洗脳」レベルに追い込む必要がある。
もはや抵抗する気を奪うほど痛めつけるのだ、そう、「考える」気力を奪うのだ。そして、決めては「飴」だ。「鞭」で打たれれば打たれるほど「飴」が際立つ、DV共依存者の出来上がりだ(ぼくのパパみたいにヌリカベ然としたどでかい老人に「鞭」を振るう中年なんて想像したくもないけど)。

宗教もこうして生まれるのか、と思う。
そう、宗教は人を依存させ、操作するだろう。
絶対的な命令を与えられ迷いがなくなると、一種の「幸福」が感じられる。「迷い=考える」「自由=責任」は面倒くさいしストレスなのだ。
これは、支配したい者と、支配されたい者で、結果ウィンウィンなのだ。
だから、「悪」でもないだろう、お互い喜んでいるのだから。

そんな楽園に違和感を感じるのが「考えすぎ」の社会不適合者どもだ。
そんな「無駄な考え」は捨て、乗っかっちまえば楽で「正しく」在れる、しかし、彼ら、「変わり者」はそうできない、「我=意志」が強すぎるのだ。

このような者どもは「反社会的」「協調性がない」「常識がない」などと蔑まれ、迷惑者としてさらに疎まれることとなるだろう。

「法」を犯すのは、我が儘である。
けれど、一方的な「支配」も、我が儘である。

秩序を守るために「法」は必要だろう、けれど、全てを支配下に置く必要があるだろうか?

「絶対にこうしなければならない」

それは、相手のパーソナリティを無視する。
自分のやり方とは違っても少し彼らの行動を観察し、どうなるか試してみてもいいじゃないか。
彼らのとった行動は破天荒に見えてもそう悪くないかもしれない。

あれもダメこれもダメで首を閉められ続けたら、どうなる?
そんなふうに己を否定され続けたら、どうなる?
相手の悪(自分の考えと異なるもの)を論うより、善(その考えも悪くない)を見つけた方が楽しくないか?

他者のパーソナリティー形成には物凄く長い時間と、想像も及ばない(ニンゲン以外ならさらにだ)さまざまな刺激が関わっている。
その長年の集大成たる「我世界」を今あったばかりの他人に変えられることができようか?
できるとしたら、その者はその道のプロだ、気をつけるがいい。
たいていの者はプロじゃない、ゆえに他者を変えれない(己に従わない)ことでイライラするだろう。

女子たち、「私だけがこの人を変えられる!」という妄想は捨てたまえ。
そいつを変えるのに何万時間必要か、時間の無駄だ。
それより、もっと簡単な方法があるじゃあないか。
「私だけが変わる」のだ。
このほうがダンゼン容易いしやり甲斐もある。



ぼくにとってポウくんは何よりも大切な者であり、優れた教師だった。
ぼくが教えてるつもりで、ぼくの方が教わることが多かった。


そしてぼくは、時間が形成した「彼世界」が好きだった。
その世界にぼくも含まれているのが嬉しかった。

だからぼくは、少し、彼の「意思」に合わせた。
彼も「意思」して、少し、ぼくに合わせてくれた。

「我のために」の「意志」ではなく、「おまえのために」の「意思」だ。
お互い少し歩み寄る、それでいいじゃないか。


ぼくは思う、ニンゲンでもイヌでも同じだと。

神さま、ぼくを慮ってくれて、アリガトウ、だ。