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悪童日記 〈映画〉


監督 ヤーノシュ・サース




「僕らは鍛えたから強い」




ずーーーっと昔にこの映画を見た。
予告編のベートーヴェンがいいね。
そん時もすげえ映画があったもんだ、といたく気に入った。
アゴタ・クリストフ三部作を読んだついでに、また観てみた。
いやあ、すごい映画があったもんだ。

小説を読んだ後によくある違和感がないよ。
わりと想像通りの世界観、話も原作に忠実だしね。
この「僕ら」、全くの素人俳優だというから恐れ入るよ。
なんとも言えないぎこちなさが動物っぽく不気味でサイコー。
「僕ら」はほとんど喋らないしね。
「僕ら」の表情はもとんど変わらない、でも小説で受けるよりも「子供らしさ」が伝わる気がした。
小説での「ぼくら」はもっと強く冷淡に思える。
原作は完全な一人称だから、「ぼくら」の俯瞰的な様子はあまりわからない。読者は彼らが「創り上げた世界」しか分からない。
けれど、映画は彼ら目線ではないから、どうしても客観的世界にいる彼らをみることになる。
すると、彼らは泣きもするし、遊んだりもする、おばあちゃんになつく、「少年」なんだ。
野犬のような少年だ。

ただ、司祭館の女中やおばあちゃんの様子のおかしさを観てると、こういったところに「僕ら」の目線がかなり入っているのかな、とも思う。
こういう人っているよなあ、と思いつつもすごくデフォルメされて見える。
そこがまた面白い。ああ、「凡人の邪悪さ」って他の人からはこういうふうに見えるんだろうなってね。

あと、冒頭にある「お父さんとのじゃれあい」が意外だった。
原作だとお父さんは「ぼくら」を可愛がる様子がない、むしろ薄気味悪がっている。
けれど、映画だと最初に「お父さんにじゃれつく息子たち」という普通の親子像を入れて、戦争によって壊れてしまった子供を強調しているのかもしれない。



関係ないけど、今回見てて、一番驚いたのは、「おばあちゃん」だ。
以前も見たはずなのに、小説を読んでいるときは「魔女」というイメージからガリガリの筋張った婆さんを想像してしまったからね、戦争中っていう、物資不足の中じゃ、よけいにだ。


「うわあ!なまず店長!!!」


ぼくは唸った。
「植物男子ベランダー」のあのオバちゃんだ。



ぼくがいうのもなんだけど、小説をもとにした映画で、しかも「映像化不可能」とまで言われてたらしいやつで、これほど世界観を損なわないって、ヤーノシュ・サース監督すげえなって思う。

音楽もなんだか微妙なつかみどころないのが流れているようだけど、溶け込みっぷりが脱帽だ。

映像化不可能なものって本当にあると思うんだよ。
ぼくの大好きなラヴクラフト、これさ、どうしても映像化しちゃうと怖くないんだよ、「恐怖」が安っぽくなるっていうかさ。
スティーヴン・キングの映画で宇宙人でちゃった時の残念感よ。

あと、個人的にレアード・ハントの小説は見えないところが胆だったりするから最初から全部見えちゃってたら物語にならないような気がしちゃうんだ。

あれだ、ハナから、原作と映画は別もんだって思ってみなきゃいけないね。
ネトフリのドラマ「アッシャー家の崩壊」には度肝を抜かれたってもんよ、もはやポオではない、ぼくにはグロすぎる。
そこいくと、「悪童日記」は本当にイイネって思う。
アゴタさん生きてたら、どう言ったろう?ザンネンだよ。


ぼくはもう古者だから、昔の映画が好きだけど、いい映画っていつはほんと何度観てもいいもんだ。途中で飽きないしね。
最近の映画に集中力が続かないのはなんでなんだろう。。。飽きないための刺激がこれでもかってくらい盛り込まれているっていうのに。フシギだ。
この映画なんてさ、ビュンビュン画面が変わらないし、セリフも少ないから字幕もちゃんと読めるし、痛い場面もあるのに絵画を観ているような静粛さ、冷たいくらいに静かなのにちっともダレずに一気に観れたもんなー。
久しぶりに映画に入り込めたよ。
こういうやつをまた観たいなー。




「お母さんを忘れなきゃ…思い出すと心が痛むから…」