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夜のにじ


 このままここへ母さんを置き去りにしたら、ぼくは救われるだろうか。
 酔っぱらって寝ている母さんは、泥の塊みたいだ。右肩で支えて引きずるように歩くけど、あまりの重さにうまく進めない。
 タクシーにでも乗れたら楽だろうけどそんなお金は持ってない。夜中に電話で起こされたから寝不足だし、おなかだってすいている。
 よりによって今夜はやけに冷え込んでるから、ぼくの心はよけいに震えた。
 家に帰ったら、目覚めた母さんがまた怒鳴り散らすだろう。いなくなった父さんへの悪口をぼくにぶつけて、眠るまでさんざん暴れるんだろう。
 そうして朝になったら大好きな母さんに戻って「きのうはごめんね。もう二度としないから」と泣いて謝るんだろう。
 何度もくり返されたやり取りだ。抜けられない迷路をぐるぐると歩き続けている。ほとほと疲れ果てて、母さんをその場に寝かすと隣にしゃがみこんだ。
 夜中の駅前広場は閑散として、ごくたまに通りかかる人がいるけど、誰もぼくらを気にしない。
 ここに母さんを置いて帰ったら、楽になれる。ぼくを苦しめる母さんは凍死しちゃっていなくなる。大好きな母さんもいなくなる。ぼくは警察に捕まる。そうしたらきっと底なし沼でも息ができる。
「おい。そんなところで寝るな」
 顔を上げると目の前に知らないおじさんが立っていた。色黒の肌に目がギラギラとして黒猫みたいだと思った。
「すみません。少し休んだら帰ります」
「具合でも悪いのか?」
「いえ。酔っぱらって寝てるだけです」
「そうか。大変だな、坊主も」
 おじさんはたわしみたいな頭をボリボリかいた。上着のポケットに手を突っ込むと「やる」といって、いきなりなにかを投げてきた。慌ててそれをキャッチする。
「カイロ代わりに使ってたから、もうぬるいけどな」
 それはポタージュスープの缶だった。つぶつぶコーン入りのおいしいやつだ。お礼をいって、すぐにおなかに流し込む。ぬるくなったスープがすっからかんの胃に染みわたる。
 コーンをひと粒も逃すまいとぼくが缶をたたく間に、おじさんは少し離れた場所にある敷物にあぐらをかいた。たばこに火をつけると母と同じ匂いのする煙が漂ってきた。
 思い出したように母の手を触る。あまりの冷たさにぼくは起こさないように上着をかけた。
 敷物の上にはところ狭しと絵が並んでいたので、お世辞の一つでもいおうとそれを眺める。どれも暗い背景に虹が描かれたものばかりだった。不思議に思っているとおじさんはにやりと笑った。
「夜の虹だ。見たら幸せになれるっていわれてる」
「夜に虹なんて見えるんですか?」
「ハワイとか、日本だと石垣島で見えやすい」
「なんで夜の虹の絵ばかりなんですか?」
「ガキの頃、想像で描いた夜の虹をお袋が褒めてくれたんだ」
「いいお母さんですね」
「それ以外で褒められたことはない。いつも酒ばっか呑んで俺を殴ってた」
 おじさんの思い出話になにかが波立って押し寄せ、ぼくは息苦しさを覚えた。
「それでも今日はお袋の命日だから、夜の虹だけ並べてるんだ」
 夜の虹の絵は神秘的できれいで、寂しさが心地よかった。
「気に入ったなら一枚やる」
 おじさんはポストカードに描かれた絵をぼくに手渡した。
「えっ、でもお金……」
「金なんかいらない。ただ、お袋さんはここにひとりで置いていくな」
 ドキリとした。おじさんは、ぼくがやろうとしていたことに気づいていた。
「つらいならぜんぶ捨てて逃げていい」
 たばこの煙が母を包んで隠し始める。
「そうすると別のつらさがやってくる。どっちのつらさがマシか考えろ。お前が逃げたいなら、俺がお袋さんを家に連れて帰ってやる」
「……なんで会ったばかりなのに」
「似てるからだな。お前らを見てるとガキの頃を思い出す。結末まで同じになったら笑えねぇ」
 深い霧の中に迷ったみたいにそばにいるはずの母の姿が見えない。ぼくは不安になって腕を伸ばす。
「人生はつらいことの連続だが、ときどき奇跡みたいに美しいものが見られる。俺はそれを楽しみに生きてる。お前はなにが見てみたい?」
「夜の虹も見たいけど……一番は」
 煙の隙間から母さんの手が見える。ぼくはそれを温めるように両手で握った。
「母さんが作ったおでんの鍋をまた見たい」
 おじさんがたばこを地面に押しつけ火を消した。煙が晴れて、寝ている母さんの顔を見るとぼくは呼吸が楽になった。
「鍋を囲んで食べられるってのは、夜の虹を見るより幸せなことだな」
「でもまたつらくなったら、どっちがマシか考える。逃げても逃げなくてもいつか夜の虹を見に行く」
「やっぱり似てねぇわ」
 母さんを支えながら、ぼくは立ち上がる。見上げた夜空に、虹は見えない。だけど月がきれいに見えた。


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