コロナ禍の人間関係の混乱・デモに行く友人といい子ちゃんな私
いつもは書き出しがぴたっと決まる感覚がしてからパソコンに向かうのだが、今は自分の中に生まれた思想や感情の全貌が捉えきれず、素早く動き回る混乱の切れ端を掴んで文字として世の中に投げ出すのが恐ろしい。これはあくまで私の心象風景で、社会批判というより内省と葛藤を吐き出す記録のための文章だ。その自分にこだわる姿勢はある種の逃げが多分に含まれていることも承知している。社会から自分を引き剥がす痛みを引き受ける覚悟がお前にあるのかと自問自答しながら書いたが、この結果を見るに現時点では日和見のいい子ちゃんにしか過ぎないだろう。
悪い子左翼のわがまま論者である友人は、この緊急事態宣言下でデモを決行した。彼は自粛を自粛し、あらゆる私権制限に反対を貫くといって、ゴールデン街で飲み歩いていた。
これはコロナパニックの皮を被った階級闘争で、社会の諸矛盾が顕在化している。
補償なき自粛要請に従い、Stay home したままでは階級の下の人が死ぬ。
上の人だけ生き残ることに下まで加担させられているんだよ、だから俺はデモに行く。
要請するなら補償しろ、休ませたいなら金を出せ、仕事を休むと生活無理だ、自己責任論はありえないと主張しにいく。
これが彼のコロナ禍での主張だ。
私は猛反対した。わかっている。彼のいうことは理論上正しいと確かに私自身は思った。
しかし、あなたが外に出ることによって「迷惑」がかかる。人を殺すかもしれないんだよ。自分が無症状で感染していたらどうするの?
彼の反応は「殺すことになる根拠を教えて、致死率も低いじゃん」だった。
絶句した。自分が感染して死ぬ可能性。他人に感染させる可能性。労働者の権利にはそこまで想像力が及ぶくせになぜ、ウイルスと共に蔓延している恐怖の感覚を共有できないのか。でも、家で安全に暮らしながらAmazonで本を注文する自分の卑しさにも気づいていた。
ここではあえて友人を活動家と呼ぶ。その主張に異論を唱えたいところは山ほどある。しかし少なくとも彼は、思想を生き方にしているのだ。責任も痛みも自分で引き受けている。思想に生きることによって人間関係をぶち壊した例も多々あることを私は知っている。彼がそれにとても苦しんでいることも。
翻って私はどうか。
その人間の本質が鮮明に暴き出される非常時に、私は自分が時代に試されている気がしてならない。ライターは一体この状況で何を書けばいいのか。生きることと書くことを作家は一つにすべきだという言葉がある。そうありたいと思っている。そうであるべきだと思っている。しかし、手洗い・うがい・アルコール消毒しか行動できない引きこもりに一体何ができるのか。
私は今、外に出るのが怖い。三月中旬までは愉快にクラブに繰り出し、居酒屋で友達とコロナくたばれソングを歌う一人のバカであったくせに、今は保身のために情報をかき集め不安に怯え、政府の自粛要請に従っている。正反対の行動に見えるが、共通するのはただただ世間の反応に従う奴隷だということだ。見えない大きなうねりと共に変化している社会に何を投げ込めばいいのか見当もつかず、右往左往する己を発見した。軸も思想もない、世界の仕組みも全くわからない。
ただの混乱する一人の大衆である。
活動家の友達とは対照的に、コロナで自粛要請が出ても俺の日常は何も変わらない、これでも暮らせるんだとわかったと言った友人もいた。はあ?何を言っているんだと思った。これほど困窮している人がいて、何も変わらないなんて、君の世界はなんて狭いんだ。そういうやつだったのかという諦念と軽蔑を感じた。
自分の半径5メートルもない、もっと小さい円の中でしか世界を感じられない人間の想像力のなさに絶望しそうになる。噛み合わない。平行線だというのも憚られるくらいの断絶。交わろうとする努力をしようにもお互い不快な思いをするだけだろう。
しかし、おそらく、活動家の彼は、「何も変わらない」と言った友達に感じたような気持ちを私に抱いているに違いないのだ。
私は何も失いたくない。ただ私と私の愛する人たちが死んでほしくないだけで、どのスタンスをとればいいのかわからない日和見主義だ。Twitterを開いても、他人の思考に侵食されていくような感覚がする。小さい円の中でぐるぐるしているのは私の方である。
経済がわからない。政治がわからない。収束後どんな社会になっているかもイメージできない。メディアの思想の違いこそ想像がつくものの、どのような意図がある報道なのか裏を読み取ることはできない。法律がわからない。国際情勢も英語もわからない。科学的根拠と言ってもそのデータも信頼できるのかと疑う。
現状を歴史の中に組み込む時間軸の設定が全く自分の中にない。ということは未来を予測する力も全くない。自分語りしか書けない己の力量不足に、なぜ私はもっと勉強してこなかったんだろうかとほぞを噛んでいる。
しかし思うのだ。こんな神妙な顔をして憂国の情と危機感溢れる文章を書いているくせに、半年、一年後、洗脳されないように抗おうとしているだろうか。私は世間を浮遊するただの存在にすぎなかったのに、社会に変えられないだけの自分など持ち合わせるわけもない。くさびをどこかに打ち込む覚悟も力量もなかった。日常に突如としてぶつけられるように出現した「政治と世界」という概念は、私の半径5メートルが徐々に平穏を取り戻すにつれて身を潜めていくのではないかと思う。自分の命が脅かされるから自分ごとだと捉えられただけで、結局のところ危機感のみで動いていることには変わりないのだ。
書くこととは、一人で社会と対峙して、ペン一つで戦うことだとどこかで読んだ。
そんな怖いこと、好きという気持ちだけでできないと足がすくんでいる。
私は今の自分に、ライターと名乗る資格などないのではないかと思っている。
しかしそれでも、想像力が耐えられなくても、私は書く人間でいたいと願ってしまう。
迷いと混沌の日々の中で、ただただ罪滅ぼしのように、勉強している。
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