お笑い界は尖りすぎたために、衰退か大変革の選択を迫られている

 お笑いが先鋭化して、良く言えば高尚に、悪く言えば狭く取っ付きにくいコンテンツになってしまっているのではないか。
 例えば、今年2022年のM-1にそれが顕著に現れていて、ヨネダ2000や真空ジェシカなど尖ったコンビが目立ち、さや香など正統派しゃべくり漫才コンビが今や珍しいスタイルとして扱われているという現状がある。

 今回のような事を考えるきっかけとなったのはニューヨーク・屋敷のYoutubeラジオ内での何気ない発言で、「お笑いが先鋭化されることでいずれ能のような伝統芸能として扱われるんじゃないか」といった内容だった。
 別にトークテーマと直接関わる内容というわけでもなく本当に何気ない文脈の中で発せられた言葉だったと思われるが妙に印象に残ったのである。
 
 屋敷の発言に何かしら普遍的な摂理を感じたのかもしれない。始めの内は粗削りだが刺激的なものが次第に大衆化していき、裾野が広がることで多様化、さらに変革・先鋭化を経て伝統となり緩やかに衰退していくというのは、確かにあらゆるコンテンツに共通する宿命と言ってもいいだろう。
 お笑いも例に漏れずその宿命を辿ると予想している。ただし、衰退の一途を辿る未来を予想している半面、大変革によって強かに生き残っていくという未来予想もあったりする。

 例えば、出演者の大半がお笑い芸人のコメディドラマで、これはまあ事実上の長尺コントに過ぎないのかもしれない。
 しかしながらそれがドラマの半数を占めるような世界になればもはや革命といっていいのではなかろうか。なにせゴールデンタイムに平気で30分~1時間の長尺コントが繰り広げられるわけなのだから。
 ただしこの場合、お笑いがより一層高尚なものとして扱われるという懸念もある。そうなれば冒頭で述べたような結局は寿命の短いコンテンツのままということになってしまうだろう。
 ならばお笑い芸人によるゲーム実況などはどうだろう?スマホゲームなどの流行の影響もあって今やゲームは幅広い層に支持されるコンテンツであり、これならばお笑いを日常に溶け込ませることができる。すなわち大衆的なコンテンツとして再構築できそうではないか。

 ”ジャンク感” がエンターテインメントには欠かせない要素だと私は思っている。それが身近に存在しており「自分でもやれそうだ」と誰もが思えるようなコンテンツ。
 楽しさと夢に溢れるコンテンツ、それが私がエンターテインメントに求める理想なのである。

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