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生きるために必要なもの

今日もメンタルがダメです。朝起きてコンビニに食べ物を調達しに行った以外は寝転がって苦痛の無い自殺の方法を検索していました。普段は希死念慮があっても具体的な方法まで考えることはないので、結構良くない状態だと言えます。先ほどちょっと起き上がって仕事に手をつけたのですが1時間半ほどでイヤになってしまい、残りは明日にまわすことに決めました。今日は毎日継続している1時間の勉強もしないと決め、ベッドに戻ってきてこれを書いています。

表題の「生きるために必要なもの」というのは何年も前から自分の中で答えが出ています。それは「希望」です。言い換えると、「何かしらのポジティブな将来に対する見通し」です。私個人の経験で言うと、抑うつ状態が強い時はこの希望が失われます。現在が(症状を含む様々な理由で)とてもつらい時、「その状況が今後変わらず続く」という誤った前提を持つと、希望は簡単に失われ、死のみが救済のように思えるのです。

今私が一番苦しんでいるのは、意欲の欠如です。何も楽しくないし何にも興味が持てない。仕事もする意義を感じない。(これは非常に問題です。働かないと生活していけないので。)なぜなら自分に何の能力もあると思えないからです。明るい未来像が描けず将来貧困と病苦で苦しむ自分しか思い浮かびません。こうした脳のバグに甘えて生産的に活動しない自分に対する罪悪感も、精神的苦痛に追い討ちをかけます。

普通に危うい鬱状態なので医療的ケアが必要だと思うし、友人が今の私の状態だったら私は非常に心配するでしょう。でも、もうなんかそれにも疲れちゃったのですよね。双極性障害なのでこれまで鬱は何度も経験してきました。鬱状態に慣れちゃって、自分の認知の歪みも認識できます。ずっと医者にだってかかっています。とは言っても私はこの医者のことがあまり好きでなく信用もしていないのですが。精神科に通っているのに適切な医療的ケアが受けられる気がしないというのは残念なことです。諸事情ですぐには変えられないのですが、できれば他のクリニックで診てほしいです。

私は希望を見出すのが下手なのだと思います。それは自分を信用していないからかもしれません。自分に人並みの暮らしが送れると思えない。自己効能感が極端に低いのです。今は少しマシになりましたが、30代に入ってすぐの頃はセルフネグレクトが深刻でした。多分カウンセリングに通ってトラウマケアを受けた方がいいのだろうなと思いつつ、ずるずると年月が経ってしまいました。一時期別件でカウンセリングを受けていたことがあるのですが、自分のことを話すのが苦痛で長続きしませんでした。良い心理士さんだったのですが。今カウンセリングを受けたら、私は生きる希望を見つけることができるでしょうか。

新自由主義に覆われたこの世界に、私のような弱い人間の居場所は無いような気がします。癌の診断を受けてから、私は希死念慮と生きたい気持ちの両方に引き裂かれ続けています。生きたくて治療をしているはずなのに癌が治っては困るとも思うのです。そんな自分を恥じているし、実際に症状が増悪したら健康でいたかったと悲しむのでしょう。矛盾だらけです。

私の友人であるはずの人々の一部は、私の癌にも精神状態の悪化にも一切触れません。それが彼らなりの優しさなのかもしれませんが、結果として私は一層の孤独を感じます。私が死んでも彼らにはほとんど影響がないだろうと想像をめぐらしたりもします。そして、困った時に頼れるような人間関係を築いてこれなかった自分をまた情けなく思うとともに、私が死ぬ時に悲しむ人が少なくてよかった、という屈折した利点をひねり出すのです。

大多数の人が当たり前にやっていることが私にはできない。だいぶ疲れていて、回復できるかも分かりません。何もかも放り投げて、ずっと安全な布団にくるまれてゆっくりと朽ちていきたい。

まあ、こういう日もあります。

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