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田舎とアート。ボーダーとか無くしていくために

愛知県の山間部にある田舎まち、東栄町というところに暮らしています。
田舎で暮らしつつ、やっていきたいことを形にしていくため、気持ちや考えたことを綴っています。

名古屋から移住し、気付けばなんと、もう4年。早。同じ愛知県内ながら、移住当時はカルチャーショックの連続で、日本語ながら海外に移住してきたかくらい、感覚にさまざまなギャップを感じた。理由のひとつはお年寄りが多いこと(65歳以上が半分)。移住やUターンも多少はあるが、それより自然減が圧倒的に多く、毎年人口が減っていく過疎地域である。そして、山間の交通不便な場所にあってお年寄りが多いということは、都市部と比べて情報にあからさまな格差が存在する。情報に格差があるということは、知識や考え方や行動の判断基準に不足や偏りが生じることでもある。しかし、このことは悪いばかりではなく、いい形でも機能していたりする。外からの情報が少ないことは、自分たちの判断で地域を創り上げていくということでもあり、祭りや伝統神事などが純粋に継承されている理由でもある。都市部ではすでに失われた、自然と共存する暮らしの中にある叡智や人としての尊厳などたくさんの大事な宝物が埋もれている宝庫でもある。

自然豊かな環境に暮らせることのメリットは、意識できる以上に大きい。暮らしてみて、体もあきらかに丈夫になった。この4年は、田舎で暮らし気持ちよさや楽しさを満喫しながらも、地元の人たちとの付き合い方やここで何ができそうかなどを模索し試行錯誤してきた年月だった。そして現在、仲間と廃校になった保育園施設を借りて、新たな可能性を展開する場所を準備している。
自分はそこで、ここに来てから覚えた草木染めをはじめとする、自然素材を使った手仕事を楽しむスタジオと、それらを題材とした空間インスタレーションができるメディアアート、現代アートのギャラリー用に、2つの教室を借り、改装している最中。こういった田舎はなんといっても、場所代というのがかからないので、費用面では非常にアクションが取りやすい。(とはいえ、かかるものはかかるので、その辺は自腹でせっせと投資するのだが。)
やっていきたいことのヴィジョンはぼんやり明確に、頭の中に存在する。
しかしここに至るまでに、(コロナという予想外なことも重なったこともあり)気持ちの迷いと試行錯誤と計画の右往左往は激しかった。それは、最初に述べた、地元とのギャップというものに対する向き合い方に他ならない。
ここにきたとき、「アートという言葉には触れてはいけない(特に現代アート)」というような、何か「自主的なタブー」を覚えた。アートは地元の人にとって戸惑いでしかないだろうし、街からきた人が何かわけのわからないものをやっている、と場合によっては腹立たしいものに映るかもしれない。地元の人と仲良くしたい、移住してまずそう思っていた自分にとって、アートはたぶん喧嘩材料のように思えた。eventually, (結果的に?)自分はアートを伏せた。写真を撮るのにも、人の笑顔だとか景色だとか、誰でもわかるものにしなければという強迫観念につきまとわれた(笑)
それがここにきて、保育園施設に新たな場所を展開しようと、ようやく自分の本心と向き合ううちに・・・何かが一周した。いや、全然わけのわからないものを遠慮なくやりたい。尖れるなら尖って、場所関係なしにつながるならつながりたい。ここからさらに宇宙とかもっと大袈裟な言葉も使ってアートを表したいのだけどちょっと恥ずかしいのでこれ以上は。どこかで飲んてるときにそういうこと言うかも(笑)

小さな廃校保育園をリノベした好きなことを試してOKという場所 "datte" に自分のスタジオとギャラリーを用意しながら、気持ちをアップデートする日々。


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