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田舎に自分のアートギャラリー作ってみた

山間地域に移住して4年。移住してすぐに、とにかく地域を知りたいという理由から、自ら地域カラーを背負ったハンドメイドと情報発信の店っていうのをJRの駅前の空き物件を借りて始めてみた。が、その後すぐにコロナっちゃって計画がなんだかうやむやになり、そんなこんなしている間に進めていた草木染め(や天然染料のこと)のことをもう少し本格的にやりたくて、そのために別の場所を借りてみた。

廃園保育園の再利用に参加し、教室を2室賃借。一室を草木染めスタジオ、もう一室をアートギャラリーにしてみました。

そして最初の展示を9月3日から始めることに。
まだ、ギャラリーの名前も決まってないんだけど。(誰かいい案ないかな)
いろいろ重たくて面倒くさい世の中なので、軽い感じを連想させる言葉がいいなぁと思ってたり。Air Galleryとか(笑) 自分の場所だし、適当にやれる感じにしたいんだよね。ひとつ考えてるのは、ドイツ語でKlarer Himmel 。澄んだソラ。ドイツで、Conny Plankっていう人がやってたSky Recordsっていうのがあって。ClusterとかBrian Enoとか好きなので。音楽の方面からは人生にいろんな影響を受けた。特にEnoには考え方やものの見方もいろいろ教わったように思う。

初回の展示のthemeについていろいろ考えている。まだタイトルもコピーもできていないのだあと一週間しかないのに(笑)
展示する素材は、丸ごと刈った羊毛と、畑で育てている綿と、その辺に生えてる苧麻(カラムシ)と、まちのおばあちゃんが育てたのを借りてきた蚕の繭。themeは「糸」になりそうなんだけど、糸そのものよりも、紡ぐ、織るというその原始的で長い年月に渡る人間の行為を紐解きたいのだ。
繊維を紡いだり、紡いだ糸を時間と手間暇かけて織ったりする作業は、効率の面から機械に取ってかわられたわけだけど、それでもそれを未だに手作業でやる人々がいる。むしろ最近はもう一度見直され、増えているんではないかと思う。

それは商業的に量産する必要がない「趣味」だからでしょ?と言われるかもしれないが、果たしてそうだろうか。自分の母親も(非常に仲が悪くて良い感情はない人だけど)昔は編み物や縫物を猛烈にする人だったので、子どものころから家には縫製や手芸の道具や日々編み物する母親の姿があった。そのせいもあるかもしれないが、自分もやはりテキスタイルに関心がすごく強く、少し深入りしてみようといろいろ始めだした。

紡ぐ時間、編む時間、織る時間、淡々と無機質に繰り返し作業を重ねることに手が取られている間、すごく心が自分に集中する。この時間がやめられないのだ。もしかしたら、ある種の人々には、呼吸の手作業バージョンくらいに、この淡々と何かを作業する行為って必要なんじゃないかと思うくらい。いくら機械やAIが代わりにやってくれると言っても、いや自分でやりたいんです、取り上げないでください、っていうわざわざやりたい作業。

機織りって、ゼロイチのすごくcomputationalな作業だと思う。たぶん原始の時代からコンピュータが隅々まで敷かれた現代に至るまで、何かをずっと繋いできたひとつの流れのようなものを感じさせる道具なんだよね。

道具はコンピュータになり、機械学習され、AIが肩代わりする時代になってきたけれど、このずっと続く紡いだり織ったりする行為は人間から離れないで、人間の行為として、そしてその作業をしている間、すごく心の濃い時間を生む作業として、進化していくコンピュータ中心の社会に背を向けて人の動作として守られていくんじゃないかという気がして。人間は編んだり織ったりする動作が好きなんだ。

まだまとまらないけど、機械やAIに取って代わられることが全部結果オーライではないということ。どこかの部分は人が好きでやっている豊かな人のための動作なんだ。稲刈りも手刈りでやってみたけど、すごく気持ちが豊かになることだった。実りの収穫といううれしさの実感。(こういうところから祭りも始まるのだろうし)こういうの、人がうれしく気持ちが満たされるために、機械に受け渡さず、1000年先も人間がやっていきたい作業ではないかと思うの。

(書きなぐり文章で)まとまらないけど、そんなことをこの一週間のうちにコピーと宣伝材料作るぞ。


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