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エロを小さじ1 《第九話》

《第九話》博史もアレを忘れた

「あぁ、忘れてた。そうか。アレだったのか」
 長谷博史はスマートフォンを持ったまま、ひとり呟き、ワンルームマンションの白い壁を見つめた。
 今日、映画館から帰宅してから、博史は島冬美に何度もLINEを送った。
『冬美ちゃん、どうしたの?』
『僕、何か気に障ることを言ったかな? 変なことしたかな? もしそうだったら、教えてください』
 返信がないので電話もかけた。電話にも出てくれなかった。
 冬美の態度がなぜ急に変わったのか、博史には全く分からなかった。
 今日、いつものように冬美の目を見て話そうとすると、即座に冬美は目を逸らし顔を背けた。デートの間中、冬美の視線は逃げた。最後は本当に、映画館から逃げるように出て行ってしまった。
 嫌われたのだろうか。そう、たぶん、嫌われたのだ。なぜなのか、その理由だけでも知りたいのに、連絡が取れない。
 どうしようか? ファシナンテに連絡したら相談に乗ってくれるかな? と思ったところで、博史は気がついた。
 そうだった。今日、僕は、エロティックの素をつけ忘れたのだ。
 今朝、シャワーを浴びて、その後すぐにアレをつけようと思っていたのに、宅配業者がインターフォンを鳴らして、それに対応しているうちに忘れたのだった。
 届いた荷物は、ネット注文した、冬美が好きだと言っていた本と漫画だった。すぐにダンボール箱を開封して本をペラペラめくっているうちに、エロティックの素をシュッとひと吹きすることを忘れてしまったのだ。
 あぁ、そうか。原因はエロティックの素か。
 自分の肩ががくんと落ちるのが分かった。LINEの画面がを開いたままのスマートフォンがいやに重たく感じる。
 効果はあった、ということだ。
 博史は、エロティックの素というふざけた名前の液体の効果を、心から信じていたわけではなかった。
 でも、ファシナンテで初めて吹きつけられて、冬美に声をかけて、付き合うことになったから、縁起の良いものと思っていた。受験のときに母親から渡されたお守り、身につけていたらなんとなく安心できるものぐらいに思っていた。
 それなのに、今、効果を、結果を、突きつけられた。アレがないと、駄目だったんだ。
 ファシナンテでは、男の色気が出て、男として自信がつくと言われて、エロティックの素を買った。冬美に声をかけてデートをするようになると、長谷博史専用のエロティックの素を配合したと言われて、断ることが出来ずにまた購入した。いつどんなときでも、断るということが苦手だった。
 習慣にはなっていた。恋愛関係を長く続けるためのお守りとして、毎日シュッシュッとエロティックの素を自分に吹きつけた。つけ忘れたことはなかった。今日までは。
 白い壁を見つめたまま、博史はため息をついた。恋愛は、なんと面倒で難しいものなんだろう。
 
 床にごろんと寝転んだ。もうそのまま永遠に起き上がれない気がしてきた。
 今日の僕は、アレをつけていたときとそんなに違ったのだろうか? 変だったのだろうか? 僕が変だったから、冬美ちゃんの態度も変になったのだろうか。
 他人に気をつかう冬美ちゃんは「今日の博史くん、セクシーさがゼロで変」とは言えなかっただろう。そういうことだったのか。
 セクシー。色気。恋愛にそんなものが必要なのか、改めて博史は考える。
 なんて恋愛って、欲張りなんだろう。
 冬美ちゃんと二人でいるときに、身体の奥が熱くなるような気持ちになるのは、二人で、二人にしか分からないような趣味の話をしていたときだ。二人にしか分からない目配せをしてクスクス笑ったときだ。他の人が興味を持たないような漫画のセリフを二人とも覚えていて、それを同時に思い出したときだ。今まで誰も言ってくれなかった「好き」という言葉を、小さな小さな声で言ってくれたときだ。
 そして僕は、冬美ちゃんを欲しいと思う。見た目ももちろん可愛いけれど、僕が冬美ちゃんを愛おしく思うのは、そんな二人の間にある目に見えない分子と分子が強烈に引き合う力を感じるからだ。 
 でも、それは、全て僕のひとりよがり。
 やっぱり駄目だったのだ。エロティックの素がないと。

 寝転んだまま、狭い部屋の天井や壁に視線を彷徨わせていると、ついこの間、会社を辞めた同僚のことを思い出した。
 先月、その同僚は仕事上でミスを連発した。発注ミス、連絡ミス、次々と会社に迷惑をかけて、連日上司に怒られていた。
 あまりにもひどい嫌味を混ぜた叱責をその同僚が受けていたある日。
「大丈夫? 何か僕に出来ることがあったら言って、手伝うから」
 昼休みに声をかけた。
 その同僚は、うつろな目で博史の顔を見てから、つぶやくように言った。
「最近、お祈りをする時間がなかったんだ。だからだよ」 
 彼が聞いたこともない宗教の信者だとは知っていた。でも、驚いた。あぁ、こういう考え方の人もいるんだなぁ、と心の中で呟いた。
 仕事上のミスは、お祈りをサボったから。仕事上の成功は、毎日お祈りをしたから。
 そんな考え方はできないな、こいつと僕は違うな、と同僚の横顔を見ながら、そのとき博史は思った。
 で、今の僕は? 博史は考える。
 目をつぶると、あの同僚の顔がドアップで浮かぶ。
「お前も同じだよ」
 そう、同じだ。あのあとすぐに会社を辞めた同僚と同じだ。
 エロティックの素があったから彼女ができた。エロティックの素があったから幸せだった。エロティックの素をつけ忘れたからデートが上手くいかなかった。嫌われた。
 信者だった。エロティックの素の信者だったのだ。
 エロティック教って、宗教だな。
 と、思ったとたん、腹の奥から笑いが込み上げてきた。
「エロティック教って、なんだ? ふざけた名前だな」
 まぶたの裏で、あの同僚が皮肉を込めて言う。
 博史は床に寝転んだまま、笑った。身体を曲げて大声で笑う。すると、まぶたの裏の同僚の顔が消えた。
 吹っ切れた、気がした。ずっと同じ場所をぐるぐる回っていたけど、壁にぶつかって、壁を触っていたら穴を見つけたという感じだった。

『冬美ちゃん、今日の僕は、変でしたか? 実は今日、僕はエロティックの素をつけ忘れたのです。エロティックの素というのは』
 博史は冬美に送る文章を書き始めた。
 全てを告白しよう。正直に話そう。
 そう決めた。
「よし、エロティック教を卒業しよう」
 

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