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エロを小さじ1 《第二話》

《第二話》婚活とピンクのシャツ

「父さん、婚活したら?」
 池上貴明が父親にそう言ったのは、二か月ほど前だった。
 就職を機に家を出た貴明は、一人暮らしをする父親の顔を見に、ときどき実家に帰る。
 母親は、貴明が中学一年生のとき、男をつくって家を出た。それ以来、父と息子、二人で協力して生きてきた。
「今週末、そっちに帰るよ」
 電話をすると、おっ、美味いもんを用意するから夕飯は一緒に食べよう、と父は言った。
 いつもそうだった。実家に帰るたびに、父は食事を用意してくれる。豪華な食卓ではないけれど、慣れ親しんだ父の味。母親が出て行ってから、父はどんなに忙しくても、朝食、弁当、夕食を作ってくれた。

 二か月前のあの日、実家の最寄りの駅を降りてしばらく歩くと、スーパーから出てくる父親を偶然見掛けた。
 夕飯の食材を買いに来たのだろう。両手にエコバッグを下げて歩いていた。
 父さん、あんなに老けていたかな?
 父親の歩く姿を数メートル離れた場所から見て、驚いた。もともと細身の身体は、知らないうちにより細くなっている。まるで冷蔵庫の奥で忘れられたキュウリのように、身体全体が萎びて見えた。
 猫背で巻き肩。父親が縮んだように感じる。声を掛けることもできず、貴明は父の後ろ姿を見つめた。

 あの日の夕飯は、鶏肉の唐揚げだった。いつものように、生姜と醤油で味をつけたものと、レモン塩麹で味をつけたもの、二種類の唐揚げがテーブルに並んでいた。
「父さん、婚活したら?」
 向かい合って食事を始めると、自然に言葉が出た。
 父には、いつも感謝していた。仕事と家事の毎日で、自分の楽しみなど後回しにしていた父。
 でも、貴明は、父が父の顔をしていない時の、父の生活に関心を持ったことなどなかったことに気がついた。離婚してから恋人がいたことはあったのだろうか?
「婚活? 父さんを何歳だと思ってるんだ。いいよ、そんなもの」
 父は唐揚げを口にしながら、笑ってそう言った。父は五十五歳、まだ五十五歳だ。
「でも、父さん、退職したら寂しくならない?」
 貴明は畳み掛けるように言った。
 すると父は笑いを引っ込め、手にした味噌汁椀の中を見つめた。
「この歳で、嫁さんなんかくるもんか」
「別に結婚しなくても良いじゃん。父さんの好きな本や映画の話をできる人がいたら、それも楽しいと思うんだけど」
 スーパーの外で見たあの縮んだような背中に衝撃を受けた貴明は、父が異性と交流したら若さを取り戻せるのでは、と簡単に考えたのだ。
「父さんの趣味の温泉巡りだって、女の人と行ったらもっとポカポカすると思うよ」
「いや、温泉はだいたい男女別だし、ひとりで風呂入ってもポカポカするし」
 あまり乗り気じゃなさそうな父だった。
「父さん、今はさ、婚活もネットでできるんだから。そんなに難しく考えないで、茶飲み友達を探す感覚でさ、やってみたら?」
 
 あのとき、本当に軽い気持ちで父に婚活を勧めた。来るべき老後、その日々を父が愉快に過ごしてくれたら、息子としても嬉しいと思ったから婚活を勧めた、つもりだった。
 でも、と貴明は今思う。あのときの気持ちはそれだけだったのだろうか?
 親の介護をしている上司の話を思い出さなかったか? 父が老いてきたとき、ひとりっ子の自分にかかる負担を、心の隅の隅で想像しなかったか? 誰か女性がずっとそばに居てくれたら、自分の代わりに父の世話をしてくれる人が居たら、そんな計算はしなかったか?
 そう、貴明は気づいた。
 自分の安心のため、自分の生活や精神を守るためもあって、父に婚活を勧めたのだ。

 今日、あれから二か月経っていた。
 実家に久しぶりに帰ると、ピンクのリネンシャツを着た父がいた。
「父さん、どうしたの? ピンクなんて珍しい」
「いや、そろそろ明るい色を着ても良い歳かなぁと思ったんだ」
「うん、似合ってるよ」
「そうか」
 うふふふふと、父が唇を閉じたまま笑った。
 ピンクのシャツの効果なのか、いやに顔色が良い。若々しく見える。
「今日は、豚肉の野菜巻きか生姜焼きにしたいんだけど、お前どっちが食べたい?」
「野菜巻き」
「了解」
 父は、ピンクのシャツの上にエプロンをつけた。色褪せたエプロンは、貴明が高校生のとき、誕生日プレゼントとしてあげたものだ。
 鼻唄を歌いながらキッチンに向かいかけた父が、食器棚の前で足を止めた。
「貴明、ちょっとお前の意見を聞きたいんだ」
 そう言って食器棚の引き出しから、何かを取りだした。
「これ、エロティックの素っていうんだけど」
 貴明は、父が差し出したものを見た。
小さなハート型の小瓶。香水の瓶のように見えた。
「はぁ? エロティック?」
 その単語が父親の口から出てきたことが不思議だった。自分の父親に似合わない単語、それこそが『エロティック』じゃないだろうか?
 髪が薄くなった頭を上下させて、父は何かを誤魔化すように笑った。
「ほら、お前が婚活しろって言っただろ? だから、父さん、いろいろと調べたんだ」 
「あぁ、言ったけど……。父さん、婚活はじめたの?」
「うん、まぁな。婚活っていうか、運命の女性を教えてくれるところに行ってきたんだ」
「運命?」
「で、このエロティックの素を買うことになったんだ。これをつけると、セクシーというか、男の色気が出るという説明があったんだ」
「はぁ? セクシー? 色気?」
 貴明が驚いて声を上げると、父は大げさに肩をすくめた。
 珍しくピンクのシャツを着た父は、外国人のような仕草をする。
「うん、そうらしい。で、お前に質問なんだけど……」
 父は何度もまばたきをする。
「息子のお前から見て」
 教室で初めて発表する小学生のような表情で、父は言葉を続けた。
「父さんは、セクシーになったかな?」

 


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