橋本治の初期雑文を読む2

『極楽迄ハ何哩』より「親爺の女」
僕は、伊東深水を"知っている"ばかりでなく、伊東深水をかなりに"好きだ"。
伊東深水は、画壇の"川口松太郎"だろう。どうしてかというと、川口松太郎は"小説家の川口松太郎"ではなく、"新派の川口松太郎"だからである。川口松太郎の功績は、残るのだとすれば、『愛染かつら』を書いたことではなく、昭和の新派を完成させたということで残るであろう。新派は"現代劇"だった。今後商業演劇から"現代劇"が消え去らなければ残るということである。
現在残っている"大衆小説"は、すべて"大衆時代小説"で、その当時あった筈のその当時の"大衆現代小説"は綺麗さっぱり忘れ去られている、という先例があるのである。
伊東深水が忘れ去られているのもそれが理由である。
伊東深水は"美人画家"だった。彼が描いていたものは、一番分かりやすく、一番消えやすい、"女"が身につけていた"風俗"だった。昭和という時代は、"現代"というものをすべて"風俗"に代表させて、次から次へと捨て去っていく時代だった。だから、"風俗"という名の衣裳を描いていった伊東深水は忘れられていたのである。

同じく『極楽迄ハ何哩』より「ヴォネガットが又、好き♡」
ヴォネガットの作品というのは、下手に深入りすることを"良心的"というのなら、その"的"の一字の持つ意味は"グロテスク"だという一種のあきらめに貫かれていたものだった··。
『スラップスティック』はヴォネガットの作品の中で多分一番、キッチリとグロテスクで、だからこそ一番美しい仕上がりになっている。

つづいても『極楽迄ハ何哩』より「未完の文章読本ナンセンス篇」
ナンセンスとは"意味が欠落していること"、"意味が欠落している状態を表すこと"である。そこから、"意味が欠落しているが為に、それに付随して起こりうる反応=知覚が不可能な状態に陥ること"を表す。要するに、意味がないから訳が分からないのである。
しかし言葉は常に意味を持っているものである。
言葉とはなんだか訳の分からないものを留める画鋲のようなものなのだ。そして言葉という画鋲に留められた瞬間に言葉と合体してしまう訳の分からないものを"意味"と呼ぶ。
言葉は生きている画鋲である限り、常に意味を持っているのであるから、ナンセンスなんてものはありえないことなのであるが、しかし人間には言葉から意味を欠落させることも可能なのである。つまり"意味が欠落している言葉"とは"意味が欠落するように仕組まれた言葉"なのである。仕組んでいるのはもちろん作者である。ナンセンスの文体とは、ワザと訳の分からないことを書いておいて、その書き手が"俺ァ知らん"と知らん顔をしている文章の文体ということになる。
作者が知らん顔をして訳の分からないことを書くというのは、平然として訳の分からないことを書くということである。『脱走と追跡のサンバ』の作者は、平然と、意味を把握できない文章を書き、読者は知らず知らずの内に気味悪がるのである。「気味悪がらせよう」という作者の意思は伝わっているということなのである。
ナンセンスとは論理の楷梯を欠いたまま論理を構築しうるもの-いかにすればかけ違えることが可能かということを論理的に究明する論理なのである。そして、そのことに知らん顔している以上、作者とは論理の整合を極めうるもの、または極めえたものということになる。
ナンセンスの文体は日本にたった一つしかない。ナンセンスをまっとうしたもの、即ちナンセンスによる論理学の教科書とは筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』である。

さらに『極楽迄ハ何哩』より「当世豚に真珠考」
宝塚は遠近法が歪んでいる。歌舞伎も遠近法が歪んでいる。歪んでいるけれど、国文学雑誌で特集を組まれる歌舞伎は、その歪んだ遠近法に対して"歌舞伎の美意識"というレッテルを貼られる。大衆小説も"杉良太郎"もマンガも、みんな遠近法は歪んでいる。その遠近法の歪みゆえに、これらはみんな正統から遠ざけられる。誰も、その歪みは何故起こるのかとは考えない。正しいものは遠近法が歪んでいない。歪んでないから僕達は、正しいものだけを相手にしてインテリをやる---これが日本の知的マニュファクチャアの実体である。一昔前までは、そういうのこそを"特殊"と言った。遠近法が特殊に正しい場を指して"象牙の塔"と言った。
インテリは何よりも"風俗"に弱い。"流行"が分からない。そりゃそうだろ、"現実"に生きてないから。"風俗"をバカにするものは"風俗"にバカにされる。何故かといえば、"風俗"をバカにする人間には、"風俗"をバカにする内的必然性という、欠陥があるからだ。豚に真珠は分からない。しかし、真珠を持ってしまった豚は、自分の豚さを忘れてしまうのである。

『極楽迄ハ何哩』より最後に「子供に、なる」
子供は常に自分の無力さに打ちのめされている。そして自分が無力であることを知るのは、子供にとって最大の恐怖なのである。だから子供にとって、大人になることは即ち、自分の無力さを克服できるようになること以外の何物でもない。そして大人になる最も手っ取り早い方法とは、自分が子供であることにさっさと見切りをつけてしまうことである。
大人になるということは、かつて無力な子供だったことをしつこく忘れず、いつかパワーアップして十万馬力の子供になってやる!と決心することと同じである。そして、不完全だった子供が完全な子供になった時、それを大人になったと言い、不完全な子供が中途半端な大人になって平然としている時、それを、人は「年をとった」と呼ぶのである。

次いで『ヴィヴィッドボーイのカリキュラム』第7時限社会地理学より
冗談とは、客観性の先にある自由裁量のこと、である。
第10時限文化人類学より
スター
スターにだけは絶対になりたくない。革命家がスターになったらおしまいだから。スターを必要とする人間を根絶してから、スターになりたい。
第21時限教育実習より
天才
何遍でも死ねる人だと思う。
"天才的なもの"を作るのって、存外簡単。一生懸命集中すれば出来るし、真剣に考えないで出来ちゃうこともあるから。
一コだけ"天才的なもの"を作った人のことを天才だと思ってるらしいけど、それは間違い。「その人が天才だった一瞬もあった」っていうだけ。
ロクでもない"天才"っていうのは、往々にして、ある瞬間自分が天才であった、その時の遺産で食ってるだけ。
天才である瞬間を作り出し続けることが出来る人だけが"天才"。
だから苦しい。「結局、自分というものの限界から脱け出せないのかもしれない」という考えから自由になるのは、ホントに苦しいことだから。
しかし"自分"という枠は常に、他人から与えられている枠である。他人の思いこみによって出来上がっているもので、"自分の思いこみ"というのは、実は、他人の思いこみの先取りでしかない。そうである以上"自分"という枠組は「遂に超えることが出来る」という可能性が開けたのである。"自分"という限界を超えると何があるかというと、広大なる宇宙があって"他人"がいるのである。
「成長とは天才になることである」という義務が、一般人の上にも出来たのだ。

つづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?