橋本治とミュージカル4

秦豊吉は昭和8年、宝塚入社以前に、小林一三に以下のような内容の手紙を送っている。
·パリのレビュウは種ギレの感がある。踊りよりも歌に転じてきている。
·レビュウに代わるものとして「オペレット」が圧倒的人気
·ロンドンでは伝統的なヴァラエティが健在
·将来日本の大衆に最も歓迎される芝居は、歌と舞踊とを多く含んでいるものであると確信している。今日ではそれは「オペレット」であり、映画に対抗し得る唯一である。
·宝塚はこれまでのレビュウはそのまま継続的にやるとして、別種のオペレットに着手すべき(従来の「オペレット」と称する外国風のものではない日本的「オペレット」である)
·私自身は英国式のヴァラエティをやってみたい。
このようなものであるが、このとき既にのちの帝劇ミュージカルスへとつながる視点を持っていたようである。
レビュウ、オペレット(オペレッタ)、ヴァラエティという3つの用語が出てきたので整理してみる。
一番分かりやすいのは、今では全く違う意味で使われているヴァラエティかもしれない。秦の説明によるとヨーロッパには二通りあり、ドイツ式ともいえる、筋を追わずに、舞踊·綱渡り·動物·アクロバット·奇術等を主に並べるもの、英国式ともいえる、漫才·道化·スケッチ·歌等を筋によって並べる式のもの、あるいはこの両方を適当に組合わせる式等、とのことである。秦は英国式に傾倒したようである。それがのちの帝劇ミュージカルスでショー場面を重要視した所以かもしれない。
オペレット(オペレッタ)であるがここではほぼミュージカルと同義でもよいのではないかと思われる。当時まだミュージカルという言葉は使われていなかったし、秦自身のちに帝劇ミュージカルスを帝劇オペレッタとも言っている。歌と踊りを多く含んだストーリーのある芝居で、喜劇味が強いものと考えられる。このオペレッタであるが、日本初のオペレッタ映画と呼ばれたのがマキノ正博監督による『鴛鴦歌合戦』である。公開は昭和14年。これを観た宝塚の高木史朗、音楽評論家の野口久光がわざわざ京都ホテルへ来て、マキノ正博に、これこそ初めての日本のオペレット映画だと絶賛したらしい。マキノ正博は、翌年(昭和15)には『続清水港(清水港代参夢道中)』、その翌年(昭和16)は長谷川一夫と古川ロッパの『家光と彦左』『男の花道』、長谷川一夫が阿波おどりを踊る『阿波の踊子』。さらに翌年(昭和17)は長谷川一夫とエノケンの『待って居た男』を撮っている。木村恵吾監督の『歌ふ狸御殿』がこの年の作品である。
同じ頃秦豊吉は宝塚の白井鐵造を東宝に招き入れ、「東宝国民劇」(既に英語の使用は忌避されていたようである)を開始する。第一回が昭和16年「エノケン竜宮へ行く」で、これこそが戦後の帝劇ミュージカルスの先駆けと言えるものであった。同年第二回「木蘭従軍」。白井鐵造の弟子であった高木史朗は、日本の創作ミュージカルでこれ以上のものは創作されていないと著書で述べている。しかし時局の変化により「東宝国民劇」は続けることができなくなる。
日本で最初に大衆に広まった音楽劇の形式がレビュウだったであろう。レビュウの本来的な意味は、ダンス、歌、音楽などによる軽喜劇で、歳末に1年の出来事を振り返るという意味があるそうである。日本でのその最初は宝塚。昭和2年外遊帰りの岸田辰弥による『モン·パリ』である。1年間の外遊を歌やダンスで振り返ったことからレビュウとなったのであった。ダンスの振り付けは弟子の白井鐵造が担当。四千人の大劇場は連日大入り、「モン·パリ」の歌は日本中に大流行し、世はレビュウ時代に突入。歌とダンスによるショーが一般にはレビュウと呼ばれるものになる。昭和3年の『モン·パリ』東京公演では、歌舞伎座を借りて五日間行われ、この舞台を見て驚いた松竹社長の大谷竹次郎が、歌舞伎のレビュウ化を思いついて、木村錦花に「弥次喜多」を書かせ、結果大当たりとなり、毎年夏の爆笑喜劇として風物詩となった。
同じ頃浅草にはエノケンがいた。昭和4年の「カジノ·フォーリー」、昭和5年には「プペ·ダンサント」と所属劇団名は変わりつつも座長格として人気者となっていった。戦後東宝副社長となる森岩雄はこのころのエノケンを、オペラや歌舞伎やいろいろな既成の舞台をパロディ化する軽演劇を東京で作り上げた功労者と述べている。エノケンの「プペ·ダンサント」で頭角を現したのが若き日の菊田一夫だった。当初サトウハチローが台本を書いていたのだが、書けなくなって弟子の菊田にまわってきたのだった。昭和6年に「ブペ·ダンサント」は内部分裂で解散、エノケンは松竹専属となり、菊田一夫は古川ロッパの「笑いの王国」の看板作家となっていく。古川ロッパは昭和10年に東宝に移籍すると、古川ロッパ一座として浅草を離れ有楽座を拠点とするようになった。一方のエノケンは浅草の松竹座劇場をホームグラウンドとして大一座を作り上げた。この一座には二村定一という昔からエノケンとコンビを組んでいた歌い手や作家として菊谷栄がいた。この二人が宝塚の熱心なファンであったため、宝塚のレビュウの影響を受けた作風のものが多くあったようである。このエノケンも昭和13年に松竹を辞め、東宝へ入り、浅草を去るのだった。
同じ頃浅草の吉本興業花月劇場では、川田義雄、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓をメンバーとする「あきれたぼういず」も活動をしていた。しかし昭和14年の新興キネマによる吉本興業芸人大量引き抜きにより川田義雄以外のメンバーが引き抜かれ、川田義雄はミルクブラザースを結成、残りのメンバー+山茶花究で第二次あきれたぼういずを結成する形となった。
この浅草の地は、大正年間に浅草オペラブームが起こった地であった。ブームの火付け役は、伊庭孝と高木徳子。二人は、明治末に帝劇で上流階級の間で一時的ブームとなったオペラを日本風にアレンジして歌とダンスとドラマのあるものに変えた。言わば最初の和製ミュージカル。二人が結成した「歌舞劇協会」に岸田辰弥もいた。浅草ではさまざまな劇団が結成されては解散や引き抜きなどを繰り返しており、そういった中に金竜館を根城にしていた田谷力三、柳田貞一などがいた。
大正の震災によってこのブームも終焉を迎えてしまうのだったが、金竜館で柳田貞一の弟子としてコーラスをしていたエノケンが、昭和初年になって前述のように、別種のブームを巻き起こしたのであった。
浅草オペラを産んだ大元は帝劇の舶来オペラであったが、明治45年に能楽の「熊野」をオペラにして上演している。これは一般には大不評だったのだが、これを観て歌劇の上演を思い付いた人物がいた。それが宝塚歌劇を生んだ小林一三であった。
浅草オペラと宝塚のきっかけを作った帝劇であったが、もうひとり重要な人物がここにはいた。それが益田太郎冠者である。
彼は帝劇の重役となり、発起人にも名を連ねている。そこで自ら脚本も書いていたのである。そこで書かれたのはロンドン留学中に見たレビュウや喜劇、ヴォードヴィルなどに影響を受けたもので、それに落語趣味がない交ぜになったような喜劇だったそうな。これは当時いわゆる知識人の間では「落語めきたる茶番狂言」などと悪評散々だったようなのだが、帝劇の観客には大いに受けていて、彼の作品は数多く上演されていた。また、落語の新作も多数書いており、明治末に発足された落語研究会で活躍した圓左の新作の多くは太郎冠者の作であった。
太郎冠者の喜劇の影響は、岸田辰弥の『モン·パリ』にも、そして浅草のエノケンにも見られた、と高木史朗は著書の中で言っている。
歴史順に見てみると、戦前が、帝劇オペラ·帝劇喜劇→宝塚歌劇·レビュウ、浅草オペラ→宝塚オペレッタ、浅草軽演劇、オペレッタ映画、東宝国民劇
で、歌舞伎を出発点とするような日本的ない交ぜ文化を反映したミュージカルが一度頂点を迎えるも、戦争により中断。
戦後、帝劇ミュージカルス→東宝ミュージカル、チャンバラ時代劇で戦前の頂点を盛り返す。しかし1963年『マイ・フェア・レディ』の上演成功により、流れが本物志向へ変わる。同じ頃映画界もヤクザもの·実録物へと変わっていったのだった。




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