あの人の人物像が、崩れていった夜
12月29日、夜。
無性にあの人のインスタを見たくなった。
あの人というのは、高校時代のクラスメイトのひとり。友人というほどの仲にはなれなかったが、関係が浅くて何も覚えていないという訳でもなく。
キュートな容姿で、いつもハツラツとしていた。英語も発音良く話した。そして何より、「掴みどころがなかった」。
人は常に明るくはいられないと思っていた(今も思っている)私は、その人の暗い部分を見たかった。少しでも見られれば、納得できる気がしていた。
でも、見られなかった。「単なるクラスメイト」より深い関係になれば感じられたのかもしれないが、成績や英語力で彼女を微妙にライバル視していた私は、とても近づけなかった。
「こんな風に根っこから明るい人もいるのだ」と結論づけようとしたまま、できずにいた。妙なもやもやが心にひっついていて、そのもやもやに耐えきれなくなった時、私はその人のインスタを見るのだ。
サークルの友人との誕生日会。スキー旅行に、カフェでのランチ。
それらを自分のアカウントに堂々と挙げられる真っ直ぐさに恐れを感じながら、インスタ上で輝く数々の写真を眺めては、彼女の「明るさ」に納得しようとしていた。
ところが。
この日の夜、久しぶりに彼女のインスタに挙げられた投稿を読んで、人物像を腑に落とそうとする私の試みは、終わりを迎えた。
そこには、普段と違って、長文で心の内を綴った文章が載せられていた。
惹かれるまま読んでみると、その内容は、私がこれまで必死に作り上げようとしていた彼女の「明るくて鈍感な」人物像とは全然合わないものだった。
内容を書くことは控えるが、それはとても、繊細な文章だった。
周囲には「いつも穏やかだ」と言われながらしばしば毒づいて生きていた私が、その人とともだちになりたくなるような事柄が書かれていた。
その時、私は思った。
私はずっと、あの人を「掴もうとしていた」のだと。
自分が理解できる範囲で、そうであってほしいと願う世界観から見た彼女を、ある意味「記号」として分かろうとしていたのだと。
このことは、考えてみると矛盾している。
だって、私は人から考えすぎと言われてしまうような人と、ともだちになりたいと思うから。
だからこそ、暗さを彼女のどこかに見つけたかったはずなのに。
なぜか同時に、「鈍感で、ただただ明るい人」として頭に仕舞ってしまいたかったのだろう。
12月29日、夜。
私はこの日瓦解した彼女の人物像を置いて、彼女にもう一度会いたい、と思った。