見出し画像

その気持ちはどこへ向かう。

理不尽なできごと1回ごとにスタンプを1つ押してもらって、ある程度たまったら何か小さな幸せに交換できるシステムが人生にあったらいいのに。

*****

昔、仕事関係の団体で海外出張に出かけた時のこと。
私はその団体に所属しておらず、単発で関わるだけのフリーランスだったので、その場にいる人に満遍なく愛想よく、かつ控えめに振る舞おうと気を張っていた。

その中の一人が空港でパスポートを忘れたと気づき、後の便で追いかけてくることになり、その人のお仲間さんと(一人参加の)私が隣同士で並ぶことに。

途中、パスポートを忘れた人のことを気にかけて話題にしたが、お仲間のはずのその人も、他のどなたもほとんど関心を示さず、パスポートを忘れた彼女はもとからいない人のような扱いだった。
当時、海外で携帯電話を使える時代ではなく、一人で深夜にホテルに着いて他の人の動向もわからず不安だろうからと、私は翌日の予定と集合場所を添えたメッセージをフロントに預けておいた。
そして彼女が無事合流して仕事も開始された数日後。

私はその二人(自分にとっては母親と同じ世代)から距離をとられ、以来帰りの空港までずっと避けられた。
二人はいつも一緒にいて、ふとした拍子に目が合うと顔を背けられた。
「なんで?パスポートを忘れた人のことを気にかけてお世話したのは、むしろ私なんだけど。もう一人はあんなに冷たかったのに…」とモヤっとした。

避けられた理由は帰国直前に分かった。
私は広く浅く交流して仕事を円滑に進めようと、誰かに誘われたら二つ返事でリッチなホテルでのお茶や、夕食、朝の雑貨店巡り散歩などにも参加していて、自分が誘われると、良かれと思ってその二人にも声をかけていたのだけど、それがまずかった。
団体の中には「せっかく海外に来たのだからお金を使って目一杯楽しむ」という一派と「遊び気分で贅沢しているような人たちとは距離を置いて質素に過ごす」という一派がいるらしく、程度にグラデーションはあるが件の二人は後者だった。
だから最初はともかく、1週間ずっとお遊びや外食に付き合い続けるなんてうんざりだったのだろう。二人はそこに「わたしがいない」ことにしたかったらしく、たまに視界に入ると目を逸らした。
はじめは仲良く大勢で観光に出かけていた他の人たちも、実は色々個人的な好き嫌いがあったようで最後は散り散りになっていった。

帰国後、パスポートを忘れた女性から突然高価なシルクスカーフが送られてきた。素敵だったけれど、結局一度も身につけることがなかった。

私が好きな「ナルニア国物語」全7冊の中の1冊『朝びらき丸 東の海へ』の中に、こんな場面がある。
ルーシィという少女がある館で魔法の本を開き、「友だちが自分のことをどう思っているかを知るまじない」を見つけて唱えると、汽車の席に腰掛けている二人の少女(一人はルーシィの仲良し)の姿が浮かび上がり、自分の噂話をするのが聞こえてくる。
「あの人、あの人なりに悪い人じゃないの。でも、先学期は、終わり頃、すっかりあの人にはうんざりしたわ」
仲良しの女の子が、別の子に対してそう言うのにショックを受けたルーシィは「どうぞご勝手に」と本に向かってどなり、「あっちにもこっちにもいい顔をして」と吐き捨て、その二人が絵だと(現実ではないと)ハッと思い出すのだ。

「でもわたしは、ずっとずっとマージョリーをよく思ってたわ。そして先学期は、あの人のためにあらゆることをしてあげたし、ほかの人たちだったらしないほどに、あの人についていてあげたのに。そのことはあの人だってよく知ってるわ。(中略)いや、もう見たくない。見るもんですか」(太字は引用者による)

『朝びらき丸 東の海へ』C.J.ルイス/瀬田貞二訳(岩波文庫)

そんなルーシィのそばにアスラン(気高く恐ろしく美しいライオン。キリスト教をベースに描かれた物語の中で、神の子キリストのような言動をとる)が近づき、友だちの会話を立ち聞きしたことを優しくとがめる。

「あなたは友だちの心を読み間違えている。あの人は弱い人だ。だがあなたのことが好きなのだよ。あの人は、もう一人の年上の子のことを恐れて、心にもないことを言ったのだ」
しかしルーシィは一度耳にしてしまったことは忘れられない。
もう以前と同じようには付き合えない、だめになってしまった、とこたえる。

物語の中でその件は特に解決はしないで話が先へ進むのでルーシィの気持ちのゆくえは読者の想像にゆだねられ、わたしは取り残されたような気持ちになる一方で、ルーシィの強情さに救われる。


*****

わたしに限らず、身近な人にもいろいろな体験がある。むしろ自分以外の誰かの体験にこそ、度数の高い酒のようにストレートに怒ってしまうかもしれない。

姉は写真を撮られるのが苦手な方で、自身はSNSなどを一切していないのに、会社のSNSには顔も全身も、決め顔ではなく不意打ちで撮られたような無防備な姿を多く載せられている。
聞けば、広報担当の後輩女性が「私は顔出しNGですから!」と宣言したため、同じ部署で彼女と仕事を組んでいる姉がたくさん登場させられるそうだ。

だけど、猫背の姿勢の瞬間だったり、後頭部の白いものが目立ってしまう角度から撮った物を載せることはないではないか。せめて誰だか特定されにくい配慮か、または顔が見えるなら少しでも素敵に撮ってくれてもよいではないか。

姉の代わりにわたしは怒る。

実務面では色々と新人の彼女をサポートしているにもかかわらず、当の本人は自信満々で、周りもそのようにチヤホヤしているが、実際は上の人からフォローに回るように密かに指示されているという。
姉は今年の夏、イベントに登場する会社のマスコットキャラクターの着ぐるみにも何度か入った。それも後輩からの要請だったそうだ。
なぜ拒否しないのか問うと、
「だって何か言えばすぐ泣くから。今の時代は難しいから上の人も腫れ物に触るような感じで。わたしゃ、炎天下の着ぐるみで何度か気が遠くなったわ」とため息まじりに笑う。
彼女個人がどうこうより、能力が伴わない新人を抜擢する組織人事の理不尽さへの諦めの境地のような。
その後輩のサポートのために、姉は数ヶ月前に取得した有休を撤回して出勤し、遠征して私と見るはずだった舞台を諦めたことがあった。
本人からのお礼やお詫びなどはあるはずもなく(自分の親より年上の姉を「ばあや」か「ゆるキャラ」のように思っているらしい)、上司からねぎらいの言葉もなく。

先述の「ナルニア国物語」シリーズに登場する少年少女たち、あるいはナルニアや他の国の住人たちの中に、思い上がって周囲を見下す若者や、自分は楽をして決して損をしないように振る舞うずるい人、全てに無関心で自分さえよければそれで良いと考える人などがいる。
自分が何かを伝えても、誰も相手にしてくれないで遠回りしたり危険にさらされる場面も多い。そんな時に味方せず遠巻きに見ていて「悪く思わないで」と声をかけるだけの人もいる。現実世界と同じだ。

わたしはナルニア国物語シリーズ7冊を毎年のように読み返しては、理不尽な目にあい、時に不平不満をこぼして怒りに任せて暴言を吐いて後悔する登場人物たちの健気さ、愚かさと立ち直る姿にいつも励まされる。

*****

次はお金にまつわる理不尽な話。

あるとき親の遺産が入ったことで、仕事関係の知り合いから借金を頼まれることが増えたAさん。
昨年だったか、お金を用立てた相手から「いついつまでにはお金を必ず返せるアテがあるので」と約束された期限をすぎてもお金が返ってこず、「少し事情が変わったのでもう少しかかりそうで…」と何度かは平謝りされたものの、徐々に連絡は途絶えがちになったそうだ。

仕事でやりとり自体はあるのに、向こうがお金については何も言ってこないのでAさんが数ヶ月おきくらいに状況を尋ねていると、あるとき「今すぐ返金しろってことですか?でしたら他から借りてなんとかお返しするしかありませんが」とキレ気味に返事されたとか。
他から、というのは消費者金融などになるのだろう。
「いや、そこまではしなくても…」と Aさんは伝え、結局今もまだ返ってこない。
それは、はした金ではないが、大金とも呼べない額だった。
おそらく複数人から同じように借りているのだろう。

最初から貸さなきゃよかったのに。もう一生返ってこないんじゃない?
というわたしに、Aさんは「お金はどっちでもいい。そのことで苛立っているんじゃない。最初にあれだけ絶対いつまでにと約束したなら、たとえば月末ごとにでも、せめて今どんな状況で返済が遅れているのか報告、いや言い訳をしてくれてもいいのにと思ってしまう」という。

「お金を貸すとき、彼はお礼に地元の名産品を送ります」と約束したのに、一向に届かない。別にモノが欲しいわけじゃないけど、自分から言ったならその約束だけでも守ってくれたら気持ちが和むのに、それも忘れるって何なのと。
一緒に仕事もしている間柄なのに、人としてどうなのと。
もともと悪い人じゃない、むしろ憎めない愛すべき人柄なので余計に複雑なようだ。

私は30歳くらいの頃、目先のお金に困って、でも周囲に相談せず自分の大事な生命保険(年金型)を解約したことがあり、今になってとても後悔しているので、そんな風に堂々と他人に借りてすぐに返さない人のことが羨ましい。
だけど、お金借りて返せないならせめて真心だけでも返せよと思う。
嘘でもいいから「ありがとう助かってますごめんねサンキュー!」的な気持ちを、月に一度家賃を払うような気分で言ってくれてもいいじゃないか。
何度も人にお金を貸し、その都度先方との温度差で傷つくAさんのお人好しもどうかと思うが、そのAさんの人柄に甘える人にわたしは怒っている。

*****

そして最後に、今回理不尽な話を書こうと思った、最近の出来事を。

10年以上前からイベントに出展の際、販売や搬出などで助けてくれる友人Bさんが先日、職場関係の施設のイベントで「創作系講座」を担当することになり、私ともう一人の友人が助っ人で呼ばれた。三人はデザイナー仲間だが、現在はわたし以外は、それぞれ他の活動をメインにしている。

参加者が40名ほどの講座はその日の目玉の一つで、講師役のBさんは事前に私たちとの打ち合わせのほか、1ヶ月以上かけて企画やサンプル制作〜材料の購入と作業しやすい加工などの準備をたった一人で行っていた。

当日、会場で販売するチャリティーTシャツを着用した私たちは来場者に対応しつつ作業や接客をこなし、受付を手伝ってくれていた職員の方からお茶の差し入れをいただいたりしつつ、クタクタになるまで働いた。

前もって「お二人には報酬は出ないので、せめて私から夕飯をご馳走させて」とはBさんから聞いていたけれど、その日の朝、彼女はタイムカードを押そうとして上の人に止められ、
「今日はあなたはボランティアで来ていただいているので」と言われたという。

彼女は正社員ではなくパートタイマーで、元々デザイナーなので本来の業務とは違う講師を頼まれて、お役に立つならと善意で受けたそうだ。
他の場所では彼女はイベント出展やワークショップを主催しているプロなのに、事務のパート先でたまたま得意分野のことを頼まれて応じたら、特別報酬どころか時給もつかないなんて。

帰りがけにBさんが職員さんから領収証をもらっているのを不思議に思い、むしろBさんが(当日の報酬を受け取って)領収証を書く立場なのに?と謎だった光景の答えが上の話で、その領収証はなんと私たちが身につけたTシャツをBさんが自腹で購入してくれたためだとわかった。

私たち助っ人二人はノーギャラと承知の上で手伝ったが、Bさんまでタダ働きなのは承服できない。
ペットボトルのお茶を職員さんにもらって感謝し、受付を手伝ってもらったことにもとても感謝していたのだけど、あの方には給料が出ていたのだった。
Tシャツ代まで出したBさんの気持ちは…

ボランティアが悪いとは思わない。だけど後出しはしないでほしい。
最初からそうと知っていれば、もっと簡素化したり効率化できただろうに。

Bさんの体験はわたしにとって他人事ではなく、彼女のために猛烈に怒りながら、わたしはわたし自身の過去の似たような体験の分も怒っているのだった。

*****

世の中には戦争だったり災害だったり、病気や別離、ハラスメントや事件、事故の被害に遭うなど、とほうもなく理不尽なことはたくさんあって、それを思うと上に書いた話はどれも些細な、わりと平和な話だ。
けれど、理不尽な話といえば、ということで聖書で有名な「放蕩息子の話」をここで一部引用したい。

ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。
そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。
父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
口語訳新約聖書 ルカによる福音書 15章11〜32

出典:Wikipedia「放蕩息子のたとえ話」より

私の父は晩年、脳梗塞後の高次脳機能障害で以前のようには社会生活が送りづらくなった時期に近所の教会を一人で訪れてお世話になっていたようで、あるとき大判の聖書をいただいたらしく、ただ家族の誰も教会までお礼に行くことも聖書を読むこともなく日が過ぎていった。
それから随分経って、父の死後、引っ越すために段ボールを積み上げていて、読む本がなくなったので棚の隅の聖書を開いて、数日間隅々まで夢中になって読んだことがあった。
そのとき印象に残ったのがこの話で、最初はこの話の「兄」が気の毒で、なんで真面目に頑張ってきたものより、放蕩を尽くして失敗して改心した者が得をするのか、と怒りすら湧いたものだった。
マタイによる福音書の中の「ぶどう園で働く労働者のたとえ」を読んでも同じように不公平さを感じたものだ。

ただ、その後、各種解説にあるように、兄の姿は「自分は正しいと自負し他人を見下している」ことを示していることがだんだん分かってきて、それは私自身の傲慢さや他者への厳しさ、恩着せがましく嫌味な性分と重なる気がしてきた。

先述のとおり、毎年のように読み返すC.S.ルイス「ナルニア国物語」(『ライオンと魔女』『カスピアン王子のつのぶえ』『朝びらき丸 東の海へ』『銀のいす』『馬と少年』『魔術師のおい』『最後のたたかい』の7冊からなる(発表順)壮大なファンタジー)が大好きなわたし。

当初は、作者がキリスト信者であることから、文中の説教くさい描写などが苦手だったけれど、苦手だと思いながら、人生の様々な局面で「なぜ、ずるいあの人だけがいい思いをして、誠実にやっている私がこんな目に遭うのか」などとこの世の理不尽さに怒り、絶望するたびに、同じように自分の中の悪と善で葛藤し、他者と行き違って悩むナルニアの世界の少年少女たちや、素敵な大人たち(『銀のいす』の泥足にがえもんが特に好き)に出会うためにページを開きたくなるのだった。

その中の一冊、『馬と少年』では、ある少年が困難を乗り越え、命がけの立派な行いをして、さぁここで一息ついて誰かにねぎらってもらいたいような疲労困憊のその時に、目の前に現れた仙人から理不尽で厳しすぎる役目を言いつかるという場面が出てくる。
彼が仙人に質問をしようにも、そんな時間はないから早く行け、と急かされる。
読んでいるわたしも、毎回、え、ひどい、少しくらい休ませてよ。少しはねぎらってよ、と思ってしまう。

少年は、ずいぶん思いやりのない、不公平なことをいうものだと、不満に思いながらも、危険にさらされた多くの人のため、ヘトヘトになりながらも、仙人に言われたとおり一刻も休まず走り出す。

シャスタは、もしなにか一ついいことをすれば、そのむくいとして、さらにもう一つ、もっと困難でもっといいことをするようになっているものだということを、まだ教わったことがなかったのです。(『馬と少年』207p/岩波文庫)

ナルニア国物語より

上で借金の話を紹介したAさんは、長年国際的な慈善団体に寄付を続けていると、あるときその団体からの封筒の中に、寄付額を勝手に増額した振り込み用紙が同封されているのを見て腹が立ったという。
これまで支援してきた人に、もっと払えというのか、というのと、この用件で使う切手代を、本来の目的になぜ使わないのか、という怒りだった。
それでも、Aさんは支援を続けている。

なにか一ついいことをすれば、そのむくいとして、さらにもう一つ、もっと困難でもっといいことをするようになっている。それは、本当にそうなのかもしれない。

だけど、「やだよねーいい加減にしろって思うよねー。ほんと腹たつ」と、同じような体験をした誰かとささやかな愚痴を言い合って、「お人好しな自分にうんざりするよねぇ」と笑いあって、それでも自分のために自分より誰かが怒ってくれることで、生きて行けるのかもしれない。

そんなこんなで、愚痴と聖書とナルニア国物語の話、おしまい。

(追伸)ナルニア国物語にも出てくることだけど、自分以外の他人のことをどうこう言ったり考えるのは違っていて、自分の気持ちのゆがみだとか課題に真摯に向き合うことこそ唯一できることなのだろうなと。変えられるのは自分だけ。だけど誰か(本を含む)と揺れる気持ちを共有できたら大いに励みになるし勇気100倍だなと思うのでした。