暗闇の反対側
まるで、奈落みたいだ。
栄えある何かなんて何もなくても、わたしはわたしの日常という名の、なんとなくそれなりの”舞台”を勇敢に歩いているつもりだった。
格好悪くても、勇ましさだけは忘れないように。
ふいに落ちた先は奈落で、
暗くて、誰もいなくて、いつまで経っても舞台に迫り上がることはなかった。
誰もいないんだから、当然だった。
スポットライトなんか用意されているわけもなく
わたしは、わたしだけの暗闇から、自力で這い上がるしかないのだと気づいていた。
*
あなたを思い出す回数が、不思議と増えていた。
なぜあなただったかと問われるとわからないけれど、もしかしたらLINEギフトでもらっていたコーヒーの存在を思い出したからかもしれない。
有効期限までもうすぐだったそれを引き換えて、「次はあなたとコーヒーを飲みたい」と思って数日経てば、仕事であなたの家の近くに行く任務を与えられた。
「突然の連絡で悪いけど」と送ったメッセージは既読になり、あなたは現れた。
*
むかしはもっと、愚痴とか、悩み相談とか、そういう果てのない話を夜な夜な繰り返していた気がするけれど、最近は近況を語り合う。
順調に「体の具合」の話が増えてきて、神妙に頷きあったり、不謹慎に笑い合う。
一生懸命に伝えようと話すあなたの顔が、好きだと思う。
*
あなたと話していると、妙に安心する。
十年も前から、ずっとそうだから不思議だ。
何度も転んだね。
苦しいこともたくさんあった。
どっちに行っていいか、わからないことも多かった。
どこへも行けない夜を、わたしたちは何度も乗り越えた。
*
まるで、奈落みたいだ。
暗くて、誰もいなくて、いつまで経っても舞台に迫り上がることはないと思っていた。
そしてわたしは、”奈落に落ちる前”の、勇ましい自分の記憶を、すっぽりと失っているような気分だった。だから、どこへも行けなかった。
いまは芝生、だと思っている。
最果ての苦しみのような奈落も、あなたと過ごしてきたたくさんの時間の、一部なのだと思えた。
広くて、空が青くて、転んでも笑って、ときどき唇を噛んで、
何度も、何度も転がった、あの芝生に
わたしはいま、膝をついているだけなのではないか。
*
あなたの一生懸命な顔を思い出して、そんなふうに思っている。
それだけでもう、充分だった。
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