鯨井久志「失われた色・物」(第二回 かぐやSFコンテスト選外佳作)
失われた色・物 鯨井久志
(お題:未来の色彩)
二〇五六年六月二二日放送『ゆうやけワイド3』内コーナー「今週のカルチャー掘り出しモン!」書き起こしより抜粋
(コーナーの始まりを告げる軽快な音楽)
(中略)……それで経堂さん、今日は落語家さんをご紹介して下さるんですって?
ええ、そうなんです。皆さん「色物」ってご存知です? 落語が行われる寄席では、落語以外にも浪曲とか手品とか、いろんな出し物がある訳ですが、落語以外の出し物をまとめて「色物」って呼ぶんですね。
で、今回紹介する落語家さんは、落語家なのに「色物」扱いされてる、そのくせ「色物」を通り越して落語会でレジェンド扱いされているという、これまた妙な人なんです。私みたいな古くからの落語ファンなら知ってる人もおられるんですが、最近落語も斜陽ですから(笑)。この間も、この取材で寄席に行きましたが、ほとんど人がいないんです。客が私一人の時もあったりしてね。
さてさて。その落語家さんのことですがね。聞くところによると、彼も昔っから今みたいな落語会のカリスマじゃあなかったそうです。
彼と同門に、これまたとびっきり芸の優れた方がいらっしゃったんですな。これをまあ、仮にAさんとでも呼びましょうか。
Aさんは入門した時から、同門の諸先輩方をも差し置いて、飛び抜けた芸を持っていました。人情噺にしろ滑稽噺にしろ、演じさせれば横に出る者はそういない。ですけれども、彼は決して表舞台で華々しくデビューすることはありませんでした。
というのも、彼は生まれつき盲目だったんですね。目が見えなかった。その一門の師匠曰く、Aさんの芸は盲目だからこその芸や、と。落語という、見えないものを客に見せようとする芸で盲目というのは致命的なハンディキャップに一見思えますよね。でも、その師匠が言うには、マンネリ化した落語の世界に、光のない世界に生まれ落ちた者の目線、つまり〈盲目の者にしか見えない世界解釈〉を加えたという点で、今の客にはとても新鮮に映っているのだろう、というのでした。
確かに、私も若い頃にAさんの噺を聞いたことがありますが、あれは当時唯一無二の芸でした。あんなにも、視覚聴覚のみならず、五官全てに語りかけてくるような話し口は、ついぞ見たことがなかったものです。
さて、たまったものではないのが、今回紹介する落語家さんです。
同時期に入門したのはその人とAさんの二人だけ。何も言わずとも比較されてしまいます。〈目が見えない者に、目の見える俺の芸が負けるのか〉。〈目の有った俺の人生よりも、目の見えなかったあいつの人生のほうが、俺よりも優れているというのか〉。大いに葛藤があったといいます。
そして、とうとう禁じ手に出るのです。
その晩、寄席の出番を終えて出てくるはずの落語家さんを待ちくたびれた女将さんは、楽屋へと入っていきました。襖を開けると、そこには銀色に鈍く光る鋏を片手に持ち、目から赤い血を流して倒れる落語家さんがいたのです。
そう、彼は芸への悔しさのあまり、自らの目を潰し、自らもAさんになろうとしたのです。女将さんたちはすぐ病院へ運びましたが、結局彼も光を失ってしまったのでした。
さて、それと前後して、落語家さんの芸は鬼気迫るものとなっていきました。周りの見る目が変わったのもあるでしょう。自ら目を突いてまで落語を演じようとする者の芸など、落語ファンからしたら垂涎の的です。ちょうど、かつての高校野球で、炎天下のなか命を削り肩を壊してまでも投げ抜く球児たちを応援していたのと同じ図式です。
もっとも、自らの光を永遠に擲ってでも芸を極めんとする、落語家さんの狂気にも似た熱意があってこその上達ではあったろうと思います。彼はとうとうAさんを追い越し、同門のトップへと上り詰めました。
悠々自適に、あとは芸を極めるだけ……。そう思っていた矢先、彼の元へとある一報が入ります。
Aさんが片脚を切り落としたというのです。
混乱する一門生を尻目に、落語家さんは「その手があったか」と呟いたそうです。
確かに落語を演ずる上で、必ずしも脚は必要ないのかもしれません。世の中には椅子だって何だってあります。「落語は正座で演じなければならない」なんて決まりはないのです。だからといって、本当に切り落とすこともないでしょうが……。
そこからはもう、双方譲らずの競争が始まります。
落語家さんが片耳を切り落とせば、弱虫めとAさんは片肺を摘出します。負けじと片方の精巣を取り除けば、こなくそと親指以外を全て切ってしまいます。
そうして出来上がったのは、二対の小箱でした。脳髄だけは残しつつ、人工声帯と扇子をもつ義手だけを接続した、唐松模様の硯箱を思わせる小さな箱でした。
彼らは、芸事の神への捧げ物のように、自らの臓器や四肢を切り落としていったのです。
それでも落語ができるなんて、今の科学はすごいですね。
本当ですよ! 古今東西を眺め渡しても、こんな噺家はいなかった(笑)。
でも、この話には続きがあって。
ある時、一門の三〇〇周年記念会だとかいって、公の場では絶縁状態だった二人の対談が催されたんです。収録が終わって、しばらく二人だけが同室にいたのですが……。関係者が部屋に入ったときにはもう、Aさんの体はありませんでした。人工声帯はぐしゃぐしゃにひしゃげ、箱も導線も全て断ち切れていました。
まさか、落語家さんが?
でも、文字通り手も足も出なかったんですよ、お互い。
で、また妙な話なのが、どうも声帯は二人分あったというんですね。Aさんのと落語家さんのと。潰れたのが、二つ。
この騒動の後、落語愛好家の間で実しやかに流れた噂ではね。
神の段階へと近付いた二人の力が均衡して、〈既にない〉腕を、芸の力で具現化して、それでお互いの〈首〉を締め合ったんじゃないかっていうんです。
荒唐無稽だって言うでしょう? でも、ありえなくはないと思うんです。いや、きっとそうだと思います。
実際、私は昨日も落語家さんの噺を聞いてきましたがね、文字通り体が震えるんですよ。感動や笑いなんかじゃない、もっと深遠で崇高な感覚……それが、体の中をすっと貫いていくんです。少し爽やかな匂いがしたと思えば、見る景色全てがくっきりと、輪郭をいや増して見えるような、そんな気持ちになるんです。
そう、私には見えなかった、もう一つの色が見えるようになったみたいな。
Aさんとの騒動で、結果として「声」すらも神に捧げることになって、とうとう芸もこれ以上ないまでに極まったように思えました。
……こうして、自らの体を全て芸の神へ明け渡した噺家は、かつての「色物」の意味合いを超えて、新たな意味で「色物」と呼ばれるようになった。こういう訳でございますな。
さて、話も長くなりました。
それでは今回、特別に、ご紹介致しました落語家さんの噺を一席、皆様にもお聞きいただこうかと思います。貴重な録音ですので、皆さん、お聴き逃しのないように!
(無音)
(ラジオからは、何も聞こえない。)
〈了〉
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?