寮での生活|エッセイ
僕は護国寺の学生寮に住んでいる。大学には自転車で15分くらいの距離で、有楽町線、丸ノ内線が使えるという好立地にもかかわらず、家賃は食事付きで6万7000円という激安物件である。この安さの秘密は寮の古さにある。寮は建造から60年の歳月が経過しており、住む人を選ぶ。
東京大学、早稲田大学、日本大学などが近いので、それらに通う学生が多い。なお一番近い大学は徒歩3分ほどのお茶の水女子大学だが、男子寮なのでそこに通っている寮生は一人もいない。
僕は大学1年生の秋、諸事情あって家を引っ越すことになり、新居を探しているときに「静岡県出身の男子しか入れない格安寮がある」という話を思い出した。そこで早速見学に行った。
9月のある日、母と僕は茗荷谷駅から寮に向かう道のりを歩いていた。まだ暑さの残る季節である。曇天で湿気も多く気持ち悪かった。寮は有楽町線護国寺駅からは徒歩5分ほどだが、丸ノ内線茗荷谷駅からは15分ほどかかる。到着する頃には我々は汗だくになっていた。
玄関のところで何度かこんにちはと言うと、寮長さんと寮母さんが出迎えてくれた。応接室的なところで話を聞くのかと思っていたら、早速食堂とお風呂に案内してくれた。今となってはよくわかっていることだが、うちの寮には応接室など無い。各寮生の部屋と食堂と、物置と化した卓球場があるだけだ。その日は結局冷房の風に当たることのないまま帰参することになった。
食堂を見た後、僕が住むことになる部屋を見せてくれた。部屋は6畳ほどで、一人暮らしには十分な広さである。ベットや机、本棚もついている。クローゼットもある。現在はひとりで部屋を占有できるが、かつてはここが二人部屋だったというので驚いた。部屋の中はなかなかキレイだったので僕はとても安心した。
続いて屋上に連れて行ってくれた。屋上には物干し竿があり、洗濯物を干すことができる。その時も数人分と思われる衣類が干してあった。だが、我々が屋上をちょうど見終わる頃、パラパラと雨が降り始めた。それを意にも介さず引き返そうとする寮長に声をかけると、
「ああ、いいんだよ、晴れればまた乾くんだから。だいたいみんな3日くらい干しっぱなしだよ」
その時はそんなバカなと思ったが、この後ここに住み始めた僕がうっかり21時ごろになって取り込みに行っても絶対にいくつかは干してあったので、寮長の言っていることは本当だ。中には何年もそのままになっていると思われるシャツもある。屋上に続く階段には昔からの洗濯物やハンガー類が放置されている。数日観察していても使われている様子がないので、卒寮生の遺物と判断して、ハンガーが足りないときには勝手に使わせてもらっている。
ちなみに共用の洗濯機は使用するのに一回200円かかる。かなり古いので柔軟剤を自動投入してくれる機能がなく、開始後17分〜19分経過したのを見計らって自分で入れにいかなければならない。当初僕はこのことに激しくイラついていたが、最近柔軟剤入り洗剤を導入して生活が一気に快適になった。僕はこれまで柔軟剤入り洗剤というものがなぜ存在するのか不思議に思っていたが、今ではその存在に感謝しかない。
柔軟剤はふつう洗剤といっしょに入れると効果がなくなってしまうが、柔軟剤入り洗剤に入っている成分は普通のものとは違うので、ちゃんと柔軟効果があるらしい。まあ、先輩寮生(理科大数学専攻)は普通の柔軟剤を最初に投入しているのだが。
寮の人間関係はいたってドライである。食事とお風呂の時以外は全員自室にこもっている(他に過ごす場所は無い)ため、寮生同士のコミュニケーションは基本的に無い。コロナ禍以降、食堂の座席配置も全席前向きになったし、お風呂もシャワー利用のみになったので、かつてはあったはずのわずかな会話の機会も無くなった。
そんな我々だが、去年ひさびさにクリスマス会が復活し、全寮生の3分の2ほどが食堂に集まった。寮側が食べ物や飲み物を出してくれた。お酒の収集が趣味の先輩により高級ウイスキーも振る舞われ、パーティーは結構盛り上がった。話題はやはり寮でのあるあるばかりだった。ゴキブリが多いことや夏にブレーカーがすぐ落ちることへの不満、実は大通りのセブンイレブンよりも細い道の先のローソンの方が近い、寮母さんの娘と廊下ですれ違うと気まずいなどなど……
せっかくの機会なので、僕は前から気になっていたことを同じ階の先輩に聞いてみた。その先輩の部屋から、深夜に大音声がしばしば聞こえてくるのだ。歌っているようにも聞こえる。それが一体何なのかを、文句を言っていると思われないようできるだけ丁寧に、彼に質問してみた。
「あー、もしかしたら野球応援かな……」
彼は中日のファンだそうだ。なるほど、野球中継を見ながら応援歌を歌っていたのか。しかし、僕はその声を午前1時ごろに聞いたこともある。そんなに遅い時間まで野球の試合はやっているのだろうか?
「あー、録画だね」
録画で応援歌を熱唱できる、中日ファンの鑑である。寮は古いが鉄筋製なので、おそらく周りの部屋にもそんなには迷惑になっていないと思われる。歌声も部屋の前を通る時少し聞こえるくらいだ。僕のところにも隣の部屋で生じた物音はほとんど聞こえてこない。
ただ、ひとつ困っているのは、隣室のひとが、鍵を閉める度に、ガタガタガタガタッ 「……よしっ」という一連の確認作業を行うことである。扉を揺らして施錠されているか確かめているようだが、音がうるさいので僕は結構悩まされている。
こんな寮での生活だが、なんと来年の3月でお別れである。老朽化により寮が閉鎖することが決まったのだ。色々な事情で発表が遅れ、寮生がこの事実を知らされたのは8月の頭である。突然だったので僕は結構ショックだった。
である。
ボロボロの寮だが住めなくなるのは寂しいものだ。あと半年の辛抱なので、扉ガタガタ音に関しては放っておくことにした。
僕はいま絶賛新居選定中で、もうこの寮に住むことはないが、これから建て替えをして、数年後には寮の事業は再開すると思われるので、これを読んでいる東京へ進学予定の静岡の男子高校生は、入寮を検討してみてはいかがだろうか。