私が昭和の子供だった頃 〜はじめてのおつかい〜
その市営住宅に移り住んだのは、3歳のときだった(と思う)。
小高い丘の上に5棟、道路を挟んで向かって右手に1棟、左手に4棟並んでいた、記憶。
1棟には4世帯が入居し、うちは、左手に並ぶ4棟のうち、道路に面した棟の手前から3軒目だった。
住宅エリアに向かう坂の途中、右手に公園があった。
さらにその下を、道路は左側に迂回するように整備されていた。
その下のところに、今でいうコンビニのような、よろず屋といった商店があり、ここに行くには、道路を行くと迂回しているので遠回りになるので、コンクリートを張った斜面に階段が設けられていて、そこを下ったほうが全然速かった。
私のはじめてのおつかいはこの店だった(と思う)。
よく買ったのは、食パン。1袋50円ぐらいだったと思う。
当時は8枚切りを買っていた、んじゃないかな。
実家は山口県だけれど、今は8枚切りは見ない。6枚切りが主流である。
あとは、おつかいで買ったのは、コカ・コーラ。当時は瓶だった。
私自身が飲んだ記憶はないので、両親が飲むためだったのだろう。
この市営住宅は、若い世帯が多く、うちのように未就学児童や小学生のいる家庭が多かった。
お店の人は慣れたもので、そもそも顔なじみだし、親切にしてくれた。
なので、私も安心しておつかいに行っていたんだろう。
この市営住宅に住んでいたのは、私が3〜5歳のとき。
私は1969年の早生まれで、ここに住んでいるときにオイルショックを経験した。
なぜ、そのことを覚えているかというと、こんなことがあったから。
1軒はさんで隣に住んでいた家の子供が私と同じ幼稚園に通っていた同級生で、家族ぐるみで行き来があった。
あるとき、その家で、同級生と母親、私と母といたときのこと。
なんてことないおしゃべりに興じていたときに、
「ちり紙は何枚使うのがいいのか」という話題になったのだ。
当時はまだトイレットペーパーではなく、トイレで使われるのはちり紙だった、少なくとも私の界隈では。
ちり紙交換のちり紙である。
ちり紙を知らない人のために説明しておこう。
トイレで手を拭くペーパータオルがある。
あのくらいの大きさのもので、もう少しやわらかい、でも今のトイレットペーパーほどスベスベでも薄くもない、紙と思ってもらっていいだろう。
ティッシュペーパーが少しごわっと厚くなったものと言ってもいいかもしれない。
そもそもの1枚が厚いので、1枚1枚が積み重ねられ、2枚重ね、3枚重ね、はなかったと思う。
言われたのは、「おしっこだと1枚、うんちだと3枚」。
「え〜っ、足りないよぉ〜」と笑いながら答えた私。
そう、世の中はオイルショックで、トイレットペーパー(というかちり紙、っと世の中的にはすでにトイレットペーパーになっていたんだろうか?)不足が起こっていたのである。
子供ながら、トイレットペーパー不足をテレビのニュースなどで嗅ぎつけて、そういう話題になったんだと思う。
そのとき、同級生の母親も、私の母も「ちょっと前まではちり紙はなかったんだから、ちり紙がなくなったらなくなったで、新聞でいいんじゃない」とあっけらかんと言っていて、
「新聞だとかたくない? どうやって使うんだろう? お尻が真っ黒になっちゃうなぁ」なんて思いながら、大人の話を聞いていたのだった。
この市営住宅は、4棟並ぶ側の住居エリアの奥に、給水槽というか、水道施設があって、その周囲に夏草が生い茂り、直接降り注ぐ太陽の光を存分以上に浴びた、むせ返るようなにおいがした。
また、道路に面していたうちの前は排水溝があった。
コンクリートの蓋がしてあり(ときどき外して、緑のブラシが柄が長い掃除用具で掃除をした)、
この排水溝と住居の玄関との間に少しスペースがあり、そこにマツバボタンが植わっていた。
砂利の中から現れる、鮮やかなピンク、鮮やかな黄色。
マツバボタンも夏の眩しい光の中で、鮮やかな色彩が、これでもか!と生命力を放っていた。
幼い私が見て嗅いだ、夏の風景である。
アンディ・ウォーホルの『花』を見ると、そのギラギラした色使いとわかりやすいフォルムに、この住宅に住んでいたときのマツバボタンが条件反射的に思い出される。
ウォーホルの『花』はハイビスカスがモチーフということだけれど、マツバボタンの方が“ぽく”ないか?
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