虹をつかもう ――夕――
10
「じゃあね」奈々ちゃんが言う。塾の前で、ぼくは手を振る。
今日はコマ数の関係で、時間が早く、まだ日は沈んでいない。講義が終わったあとも、生徒たちは三十分くらいであれば、教室に残っていることができるのだが、奈々ちゃんは、今日はあまり時間がないと言い、ぼくもちょっと寄りたいところがある、と応えた。
昔から優等生タイプの彼女は、ぼくよりも偏差値の高い学校に通っている。その学校では試験やら小テストが大変らしく、このごろデートらしいデートが減ってきた。彼女の背中を見送って、ぼくは反対方向へ足を向ける。
ここに来たときの進行方向に沿って、さらに先に行く。ぼくが塾に行くのは、当然、大学進学のためだ。ただ、それを保険としながらも、いちおう夢のようなものがある。
若者らしく、なにかを追いかけてみたいという気持ちが、ぼくにだってある。言うのが少々ためらわれるが、お笑いを……と思っている。
が、それは、世間一般のイメージのお笑い芸人ではない。競争率が高くて、短命だし、ぼくはがつがつ前に出るタイプではない。もっと息が長く、目立たないけど、なんか面白い感じ。どちらかと言うと、名脇役になりたいのだ。
たとえば、ドラマを観るとき、名前は知らないけど、よく見かけるといった出演者がいるだろう。こういう人のほうが、ぱっと売れた芸人より、確実に安定した生活を送っていると思う。派手さはないが、飽きない面白さ。使い勝手のいい、応用の利くタレント。
まさにその手本となる人物の住所が近くにある。今、道の左右のうねりがなくなり、視界の先に、一本の急な坂道が見える。この坂の上に、その人の住所はある。塾の友達から仕入れた情報だ。
これまでにも何度か、その家の手前までいったことがある。敷地は広そうだが、外から見る分には、来る途中の民家と印象は変わらない。表札には、「盛口」と書かれている。
もし情報が正しいとするなら、芸名「セイウチ・ウォルラス」の本名なのだろう。
「盛口」の「盛」は、セイとも読める。名前の一部をもじって、芸名をつけたのだろうか。また、セイウチとは――ぼくはネットで検索したから分かるのだが――北極に棲む、獰猛な、大きなトドみたいな感じの動物。
年齢不詳、六十歳は超えていそうな、小柄なその芸人は、小さくつぶらな目と膨らんだ頬、口のまわりの白髭に特徴があり、実際にセイウチのような愛嬌のある顔をしている。単にその連想で、セイウチを名乗っている可能性もある。
で、ウォルラスだが、ビートルズのナンバーに、「I’am a walrus」という曲がある。セイウチは英語で「walrus(ウォルラス)」。だから足したのだろう。
セイウチ・ウォルラス――適当な付け方に見えるが、国籍不明の怪しいキャラで売っている彼には、その胡散臭さが非常にマッチする。これは計算じゃないだろうか?
バラエティ番組では、多くを語らず、その割りにはいじられて、毎回、どこか的を外した発言をする。さらには、振られたからといって、答えるとも限らない。間をとるだけとって、何も答えなかったり、途中で「なに話しとったっけ」と、どこまでが本気か分からない呆け方をする。
そのキャラが愛されている。まさに理想形。時々、本当に弟子入りしたくなるが、腹が決まらず、なかなか行動を起こせない。こうして堂々巡りをしながら、あるいは、本人にばったり出会えないかと期待して、たまに家の前を訪れるのがせいぜいだった。
この世界には一見してわからない境界がある。決して超えてはいけない一線。呪術的な世界では、結界とも言われている。
ぼくにとって超えてはいけない一線が、セイウチ宅に続く坂だったのではないかと思う。
11
いい時間――、この坂道の上に見る夕陽は、とても綺麗だ。太陽は、少し黄色がかった丸い電球のようで、天候の気まぐれが、空と雲を、ピンク、紫、オレンジ色に配色する。
今日の空は、赤みがかった強いオレンジ色。現実を忘れ、癒される。この景色を見るだけでも、この坂を上る理由は充分だった。
ぼくはふと足を止める。坂はそれなりに距離があり、半分と少し上ったところで、くだり側の景色も見たくなった。
これ以上美しい景色はないと感動していたときに、それを超えるものが現われる――。脳が混乱したからだろうか、目撃した人物に対する驚きのためだろうか。ぼくは反応できなかった。
坂の下を振り返ったときに目に入ったもの。
高い場所から見下ろした、光を浴びた街。その後、急スピードで、景色のなかの人物像にピントが合う。長い髪のセーラー服だ。この風景に合わせてつくったCGのような女の子。
木原が、天女がこちらに向かって歩いてくる。これまでに見たどの彼女よりも圧倒的。どんなメイクにも勝る、鮮やかな夕陽が、彼女の顔を照らす。それは天女というよりも、もう少し悪魔的な存在を思わせた。圧倒され、ぼくは立ち尽くす。木原が目の前に迫る。
その場面は、今後のぼくの運命を決定する、衝撃的な出会いとなる!
なんてことはまったくなく、見事なほどにシカトされた。彼女は通り過ぎる。
と、しばらくして、彼女が思い出したように振り返った。なんてこともなく、黙々と進んでいった。ミス・夕陽は、将来のニッチ芸人には目もくれない。ぼくは、ただただ美しい背中を眺めた。
理由ははっきりとしないが、その日はそれ以上、坂を上る気になれなかった。家路へとつく。振り返ることすら躊躇して、まっすぐに。
自宅への帰り道、辺りは暗くなっていった。まるで、ふとしたきっかけで足を踏み入れてしまった遠い世界から、日常に戻るための道を歩いているかのようだった。異世界に引き摺り込まれないよう、しっかりとした足取りで歩く。
木原――、あれは、本当に人なのだろうか。あのとき木原を、異性として意識できていなかったことに気づく。ぼくの彼女が、奈々ちゃんでよかったと、あらためて思った。
そう、普通のしあわせがいい。ときどき、ちょっとした夢を見る。けど無理はしない。おそらくぼくは、二流かもしれないが、大学に入り、そして就職するだろう。家庭も築く。それが、ぼくの進むべき道――。
12
――爆弾事件。
高校二年の、夏の思い出をひとことで表すなら、そうなる。
夏の思い出が爆弾事件ってなんだ!
普通のしあわせがいいって言ったばっかじゃん。
なんでそうなる……。
爆弾事件の前にも、個人的に大きな事件はあった。どっちかといえば、ぼくの運命を変えたのはそちらのほうだ。だが、いずれにしても、この奇妙な事件のことを語らないわけにはいかない。
はじめは、いたずら程度の小さなものだった。壁に焦げ目がついたり、どこかで破裂音がしたり。その場所も、学内ではなく、その周辺だった。そして繰り返されるうちにエスカレートする。
夜中、学校のほうから爆発音がしたと近所の人間から通報があり、警察が出動した。学校でも、不審物、不審者に気をつけるよう注意がなされた。
その頃には、学校のブロック塀が破壊されるほどの威力になっていた。生徒の人だかりの間からぼくも見たが、上のほうが、ぶかっこうな半円を描いたように砕けていた。
爆破は、学内に移っていった。音楽室の施錠されたドアが吹き飛んだ。体育館倉庫も備品の残骸だらけとなる。爆発の跡を確認できたものもあれば、人づてに聞いたものもある。ただ、言えるのは、最初に比べ、爆破の規模が、徐々に徐々に大きくなっていったということ。
学校側は、生徒のいたずらと判断。いたずらで済む行為とは思えないが、どういう感覚をしているのだろう。警察はどうした?
学校施設の調査が何度か行われたが、爆弾の類は発見されなかった。公表された文章をぼくなりに読み解くと、「決して良い状況ではないが、ぎりぎりセーフ?」とのことのようで、教師が金属探知機で巡回するという対策がとられた。
ただ、ぼくは多少、裏事情を知っている。実は、爆発の規模はいくらでも大きくできるものであったらしい。警察がそれを知らなかったはずがない。それだけのことができる犯人の対応としては、あまりに怠慢。
起爆の詳しい原理は分からないが、電子回路を遠隔操作で作動させる物であったようだ。遠隔操作の方法は、結局、不明とされている。
他にも、奇妙な点は多々あった。
――なぜ、遠隔操作のできる犯人が、この程度に爆発量を絞ったのか。
謙虚な爆弾魔? 人命優先の犯罪者?
――なぜ、リスクを犯してまで何度も。
一度にドカンを好まない愉快犯? じわじわと恐怖を与えることを良しとする、実はかなりの知能犯?
意図がわからない。頭がおかしいと言ってしまえば、それまでだが。
さらには、これも生徒には聞かされていないが、爆弾には、違う種類のものがあった。これは、まったく原理が不明。先のものとは、加わる力の方向が違うとか。
つまりこれは、「二つの爆弾事件」なのだ。
ふたつの爆破は、同程度の破壊力、同程度の頻度で繰り返されていった。まるでそれ自体が、絡まりあいながら成長する生き物のように。
この事件の異様さを知っていれば、皆、あんなに冷静ではいられなかっただろう。
同時進行する二つの爆弾事件。徐々に威力を増してゆく。
学校周辺から、敷地内、そして校舎内へ。
目的地は? どこへ向かっている?
爆破の目的は何だ? 最終的なターゲットとは?
とにもかくにも、生徒のいたずらを扱った事件としては、前代未聞のものだったのではないかと思う。
【おまけ】
ぼく(15番)
〈腕 力〉0
〈頭 脳〉2
〈イカレ〉0
〈コ ネ〉2
〈オーラ〉0
〈愛 嬌〉5
仙人(16番)
〈腕 力〉不明
〈頭 脳〉不明
〈イカレ〉不明
〈コ ネ〉0
〈オーラ〉5
〈愛 嬌〉0
ビリー(17番)
〈腕 力〉0
〈頭 脳〉0
〈イカレ〉0
〈コ ネ〉0
〈オーラ〉0
〈愛 嬌〉0
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