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#139 小学校に入学して、教科書をちぎって食べていた

このタイトルが嘘だったらいいのにと思う。だが、この話は本当だ。今の季節、ひさびさに小学校に入学したころの自分を思い出した(1~2年生の記憶が渾然一体となっている)。

わたしは学校でだいたい泣いて過ごしていた。幼稚園ではそんなことはなかったのだが、小学校一年生にしてすでに人生が暗転した。特に、いじめられていたわけではない。泣くことが原因でいじめられることはあったと思うけど、その逆ではない。幼稚園と小学校に違いがあるとしたら、管理の厳しさだろうか。わたしは管理されることがそんなに嫌いなのか?

担任の先生には通知表にこんなことを書かれたのを覚えている。
「〇〇くんは何を考えているかわかりません」
いやいや。わかれよ。わかろうとすれよ。それがあなたの仕事でしょうが。

わたしはこの先生が嫌いだった(後付けの評価かもしれないけど)。
こんなこともあった。学校の廊下におしっこがぶちまけられている事件があったらしいのだ。先生が、クラスの男子全員のおしっこの仕方をチェックすることになった。
その後教室で、みんなにこう告げられた。「便器から一番距離が遠かったのでは、〇〇くん(わたし)でした」。
はあ、頭が完全におかしいんじゃないのか。便器の距離が少し遠かったことと、廊下におしっこをぶちまけることは、距離がありすぎるだろ。

頭も性格も悪い先生だった可能性はあるのだが、通知表にあそこまで書くからには、周囲から見てわたしが何を考えているかわからない人間だったことは間違いないだろう。

あの先生の頭の悪さは世間から許容される。わたしのわかりにくさは、世間から許容されない。なんとも象徴的な話だ。
この世は雰囲気で動いている。その中に仕込まれた無知や悪意は、寛容に包み込まれる。雰囲気にそぐわない論理や正義は、激しく罰せられる。
なるほど、これは40年経ってからの気づきだが、わたしは罰せられて、泣いていたのかもしれない。

生きるために必要な処世術の大半は、「周りの空気を読み、合わせること」ではないだろうか。とにかく、非常に残念なことではあるが、当時のわたしはその能力を極度に欠いていた。

勉強のほうはどうだったのか? わたしは授業をまったく聞いていなかった。「聞けなかった」のほうが正解かもしれない。それもあって、先生に嫌われたのかもしれない。

授業を聞かない、つまり、することのない時間は暇だった。じゃあ、授業を聞けよという話になるのだが、なぜかその選択肢はなかった。代わりに、わたしは教科書の端をちぎって口の中に入れていた。まったく意味がわからないが、なぜかそういう行動をしていた。

噛むと、悪くない味がした。タイトルでは「食べる」としているが、正確にはガムのように噛む。しばらく噛んでいると味がなくなるので、口から取り出して紙を丸めた。ぎゅっと圧縮すると、鼻くそくらいの小さなサイズになる。それを周りからわからないように、指でピーンとその辺に飛ばしていた。

そんなことをしていたから、教科書は芋虫に食われたように、端のほうがびりびりに破れていた。
まあ、今思えば、手持ち無沙汰だからガムでも噛もうという心理なのだろうが、客観的に見れば異常だ。さすがに自分でも異常だと思ったので、途中でその行為は封印した。

このエピソードを踏まえて通知表の話に戻ると、先生のほうに分があるようにも思えてくる。そもそも善悪や真偽の軸がない話なのかもしれない。

なぜそんな昔の話をしているかというと、自分の子供のことだ。
もし子供にわたしの性質が遺伝していた場合、どう対処するべきなのか。
過去の自分と対峙せざるを得ない。
たとえ、子供から嫌われても、「周りの空気を読み、合わせること」の重要性を説き続けるべきだろうか。これができないとずっと苦労する。問題は、どれくらい本人の力で変えることのできる性質の話なのか……。

「客観的にはこう見える」ということを言い続けよう。
わたしとは別人、本人の問題だとしても、常にヒントはあっていい。

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