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虹をつかもう 第8話 ――黒――

https://note.com/hanei/n/n9c8a0aa6e11e

ぼくは、この頃、身を守るため、そして精神状態の悪化から、学校に行く以外は自宅にこもり、塾に行くことも控えるようになっていた。

教室にいるのが怖い。いつ火の粉が飛びかかるかと思うと、恐ろしくて仕方がない。平静を装い、漫画雑誌に目を落とすが、このポーズにもさすがに無理を感じる。気がつくと、汗の滴が床にこぼれていた。緊張のためか、机の開口部の縁、金属の部分を、右手でつかんだままになっていたのだ。
ぼくは異常に汗をかくことがある。特にこういう金属を触っていると。
こんなときに……。舌打ちをする。

直後、聞かれなかったか、周囲を見渡し、急いで、零れた汗をハンカチで拭き取った。こんなのが見つかったら、恰好の餌食になる。
視線をさまよわせたあと、仙人のほうを見る。平然として見えるけど、おまえは内心、どうなんだ。
なあ、せめておれと組まないか。話すきっかけならある。セイさんの件だ。
だがそれは、吉と出る? 凶と出る?
あいつはあいつで正体が不明である。この状況下では、思いっきれない。

ある日、五月に完成した序列、そしてグループの城壁は、完全に決壊した。
舟木が、殴られたのだ。相手はこれまた活きのいい五番。背の低い男だが、こいつもかなりの〈イカレ〉系。耳にピアス、鼻にもピアス。最近ますます荒れている。
経緯の詳細は分からないが、舟木の正義ぶったところが気に食わない。そんな感じだった。舟木は惨めにあやまる。スポーティには手を出さないという、クラスの不文律が破られた。

スポーティのトップであるフォー氏にも、かつての威厳はない。今や、実質的には、十番手くらいだろうか。不良グループの持つ〈コネ〉は、あまりにも強力になってしまった。なにかしらの「事故」で、体育会系の人間は政治家息子の敵ではないと証明されてしまったのか?

ついにクラスが、無法地帯と化した。
スポーティの一部も荒れ出すのかもしれない。吸血鬼の恐怖から逃れるには、いっそ吸血鬼になってしまえ。そんな状況のように思う。
笑えない――。
どうする? ツーに媚びるか。あいつを笑わせることは簡単だ。どう近づく? 学校SNSに、いちかばちか、これまでの路線を捨てて、大ネタを書いてみるか。

笑いなど無力。ぼくの、「元凶」に関する想像は、ほぼすべて、予想を超えた形で正解だったのだと知った。
ある朝の登校時間のことだ。初夏にもかかわらず、空気の張りつめた、冷たい日だったと記憶している。はじめて、政治家息子を見た。
遠目ではある。親の職業は本当に政治家なのかと、ぼくは疑った。

百九十センチ近くある大男。学生服の上着のボタンがすべて外され、黒いシャツが見える。学生服の黒に、シャツの黒に、見る者に凶悪な印象を与える肌の黒さ。黒、黒、黒。
シャツの素地が、筋肉と骨格に引っ張られているためか、とても薄く見える。強靭な肉体であることが、服の上からでも分かる。どう見ても、格闘家かアスリートの家系のサラブレッド。
脱色された短い髪、薄い眉、角張った輪郭。目の上の骨が出っ張り、目がくぼんで見える。その奥で鈍く光る眼球。全身から発せられる、すべての要素が凶暴で、恐怖を感じさせるものだった。

……藤沢なんて、相手じゃないだろう。ワンとツーが屈服する様子が目に浮かんだ。やつら、よく無傷でいられたものだ。それは政治家の戦略なのか? それとも、なにかの交換条件が交わされた?

一連の動きの背後にある、まがまがしい元凶を見た気がした。目を合わせたくない、見ていたくない。
人は見た目によらない――わけがない。犯罪者、あるいは、罪を犯した者が持つ雰囲気があるとすれば、まさにこれだ。

巨体の政治家息子のまわりには、我がクラスのツーと、坊主ピアスの五番、そしてもうひとり他クラスの人間がいた。彼らが、元凶と近しい人間ということか……。
政治家は、〈腕力〉よりも、〈イカレ〉重視。自らの発する、まがまがしさにふさわしい、屈折した者たち。
ワンに親しみを覚えたくらいだ。彼らには、絶対に遭遇したくない。

学校のSNSなど、問答無用で使うべきではない。
必要なのは、とにかく気配を消すこと。この災厄のサバイバー、塾のメガネ氏が先生に見えてきた。
そのSNSだが、ある日突然、生徒による運営になった。IDは匿名になり、コンテンツの公開範囲を制限する機能がついた。そういった仕様は、いじめの温床になるからという理由で、学校側が避けていたのではないか。明らかに不自然。
政治家が、学校の運営にまで影響を及ぼし出した。その考えは、憶測でもないように思う。塾の彼が言った、まさにその状態じゃないか。

ぼくはもう、これまでのように書き込めない。見れば、生徒を名指しして、「✕✕の襲撃」なんていうトピックスが立っていた。愕然とした。ぼくはすぐ公開範囲の外へと追いやられる。こんなの、コミュニケーションツールなんかじゃない……。
あの朝見た、政治家息子の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
黒、黒、黒――――。
キャラクターは不明。行動には緻密な計算があるのか? 統率力は? いったい誰にどういう指示を出している? 

クラスメイトの、ビリーに対する暴力はひどかった。これまでの比ではない。
ぼくは目を合わせることができない。今、信じられないことに、教室のただなか、教壇の辺りで、リンチと呼ぶべきものが行われている。もっとも教壇は、先日大きな穴が開けられ、そこにはない。

ピアスの五番が腹を蹴る。ビリーがうずくまる。競うように、同じく一軍、六番も上から蹴る。自分の位置を落とさないよう、ポイントを稼ぐように。
完全に狂っている……。彼らは笑っている。だけど、本当に可笑しいのか。
ビリーが泣き声を上げる。立たされ、また殴られる。信じられない光景。女子は目を背ける。

ぼくはある意味驚いている。この状況でも、浮いたやつら――仙人七瀬、天女木原の様子は変わらない。おそるべき無関心。こんなことって、可能なのか? 彼らもきっといかれている。ここまでとは・……。みんな、みんな、いかれている。

このままじゃビリーが殺されるんじゃないのか。おい、いい加減にしろよ。この場の全員が共犯になる。ワン、分かってるんだろ。この場で止められるのなんて、おまえしかいないじゃん。おいっ、おまえも殴るのかよ。本当に、分かってないのか……。

そのときだった。椅子の鳴る音。窓側だ。
七瀬が、鞄をもって席を立った。それは、大げさな動きだったわけではない。ただ、息を潜めるべき映画館で、しかも息を飲むクライマックスの場面に、前列の観客が突然立ち上がった。そんな感じだったのだ。

動きをとめる一軍。ゆっくりと彼らに向かって歩く七瀬。びびっている様子がまるでない。構えたのは、大勢のほう。ビリーがすがるように七瀬を見る。
助けるのか? 彼に、助けることができるのか? この不思議な男に、ぼくは期待をする。

彼の席からドアまでの直線上にいる、ワンに向かってまっすぐ歩いてゆく。いつもの動き。だが、さすがの彼も人間をすり抜けるわけにはいかない。ワンの手前で止まった。お互いが対峙する。
「文句あんのかよ」
先に声を出したのは、ワン。恥ずかしくなるような、紋切り型のセリフ。
「どいてくれる?」
七瀬が、静かに言う。
「助けてください」ビリーが叫ぶ。ピアス五番に、蹴られる。
「こいつ、助けるつもりなの?」ワンが、奇妙に顔を歪めて笑う。
ぼくはびくりとした。精神的に安定感のあった彼までも、ツーに見るような、こんな表情をするなんて。
「なんで?」変わらないトーン。
この人は、ひとりだけ話の外にいるようだった。ワンが次の言葉に詰まる。
「早退」言うのと同時に、七瀬が足を踏み出した。行く手には何もないかのように。
驚くべきことにワンは、その動作に合わせるような自然さで、さっと避けた。仙術……。おそらくワン自身も驚いている。表情から、そんな様子がうかがえた。
七瀬は出て行った。

これは……、マイペースで片付けられるものなのだろうか。
教室に、妙な間が空く。ビリーが、最後の力をしぼり、七瀬のあとを追い、駆け出そうとする。
そのまま逃がしてやれよ。もういいじゃないか。きっとすでに再起できないくらいのトラウマを与えている。
けれど、ワンは、大腿部を獣のように反応させ、数歩の動きで、簡単に追いついた。勢いをそのままに身を反転させ、ビリーの腹部に凶器のような足を叩き込む。先の、ばつの悪さを埋めるように、渾身の力で――。

ビリーは、悲鳴を上げなかった。うつ伏せに倒れる。頭部のまわりに、液体が広がった。女子の悲鳴が上がった。
それはまるで、駅のホームにいて、人身事故の瞬間に立ち会ったかのようだった。
笑えない。笑いの入る余地などどこにもない。ぼくのレーダーチャートが空白になる。

ぼくは無力だ。

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