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虹をつかもう 第3話 ――暗――

一階と二階の間に、「学習塾」の看板のある建物へと着いた。
みんなはもう集まっているだろうか。駅の反対側の学校から歩いてくる者もいれば、もう少し離れた場所から、バスで来る者もいる。
中学から通っているこの塾では、ぼくは意外と人気者だ。中学から付き合っている彼女ともここで会うことができる。今は、一時的な谷のようなもので、ぼくの学校生活は基本的には充実しているのだ。

高校生用の教室には、すでに四人いた。
「あっ、みっちゃん」顔馴染みの女の子から、いつもの渾名で呼ばれ、気持ちがすっと楽になる。けど、ここでぼくは、眉間に力を込め、怒の表情をつくる。無言のまま歩き、いつもの窓側の席へと座る。
「めっちゃ怒ってる、ははは」
気心の知れた四人は笑う。ぼくはあえて窓を向いたまま。
今日の登場の仕方は悪くないな。
だてに、お笑いを研究していない。学校でギャグ漫画を読んだり、バラエティ番組のネタを話すのは、防衛のためだけではない。順番が逆。元々お笑いが好きなのだ。

自慢じゃないが、ぼくが笑いをとる打率は高いと思う。
シングルヒット狙い。大きいのは狙わない。
その逆の、大振りというべき、一発ギャクや物まねの類はやらない。好きではないし、そんなの、遅かれ早かれ飽きられる。

窓の外に、ブレザー姿の、小柄な女の子が見えた。彼女の奈々ちゃんだ。
おかっぱのような髪型に、細いフレームの眼鏡、見た目は少々幼いが、目も口元もきれいだと思う。なにより、一緒にいてほっとする。

そろそろ頃合いだ。ぼくはさっきの四人に、「怒ってないし」と、向き直る。
「うそー、めっちゃ怒ってたじゃん」
そうして自然に会話に入る。すぐ奈々ちゃんも加わるだろう。
しかし……、学校とはひどい差だ。ぼくのお笑いもここではずっと冴える。
学校のやつらは、ノリでふざけているだけ。ぼくはあくまでもアイディア勝負をする。

『三田隆 くんの日記
 件名:恋文の技術

普段のメールの書き出し。
「こんにちは、三田です。(なにげない会話)」
ある日、書き出しをさりげなく変化させる。
「つきあってください、三田です。(なにげない会話)」
意外とOKが出るかもしれない。特許出願中。』

『メモ。XX年XX月XX日
気功の考え方。戻る原理。
ぼくは、身体の内側の気の流れ、「内気」の状態が混乱してしまっている。
だから、元のいい状態に戻す。それが、戻る原理。
何歳の状態にも戻すことができるし、生まれた瞬間、生まれる前の状態にだって戻せるらしい。イメージがむずかしい。
師匠に子供みたいなところがあるのは、そうやって戻してしまったからかもしれない。
方法は、イメージと感覚による気のコントロール。
XX歳のころを目指そう。
あのときのように、どうか笑えますように』

◇ ◇ ◇

ここは、進学塾といっても、夜遅くまで明かりがついているような場所じゃない。個人経営で、先生のキャラクターがよく反映されている。先生は人柄も、体型も丸い。
生徒の自主性を重んじる反面、ゆるくもあり、だからぼくでも通えている。親には申し訳ないが、ぼくにとってここはクラブ活動のようなもの。みんな、小学生や中学生からの仲間である。
そして、講義がはじまる前や休憩時間が、クラブ活動のメイン。ぼくは他の高校へ行った友人と雑談をしたり、情報交換をする。

世界が広がるというか、自分の状況を客観視できるのがいい。ひとりだったら、今よりずっと悩んでいたと思う。
みんなの話を聞いていると、ぼくはまだマシのような気がしてくる。
もっとひどい学校もあるようだ。日常的な暴力行為、器物の破壊、陰湿なイジメ。みんな明るそうに見えているけど、実は、ぼくと同じような悩みを抱えているのかも。
一瞬、教室の景色が、モノクロームに映った。

「今日は、『諸子百家』のところからなあ」先生が声を張る。「孔子とか孟子とか、ちょっととっつきにくいかもしれんが」
へえ、と思う。学校の授業とかぶった。なかなか珍しいことだ。
テキストを見ると、儒家、孔子、道家、老子、荘子……、不可解な漢字の羅列に目を背けたくなる。
ぼくら生徒の気持ちを汲み取ったように、「暗記ばかりで、うんざりするよな」と先生は言い、「けど、それらの思想は、みんなにまったく馴染みがないわけじゃないんだ。陰陽って聞いたことあるだろ。陰陽師の」

塾の先生は、生徒に興味をもたせるために、よくこういった脇道へ行く。
「陰陽の世界観は、中国のどの思想にも通じているんだ。すべての物事は、陰と陽からできているってやつな。男女もそうだし、昼と夜もそう。そして陰と陽は、変化する。今は五月だろ。これからどんどん暑くなっていく。陽の力が増していくわけだ。八月がピークで今度は陰の力が――」
けれど、妖怪退治の話が出てくるわけでもないので、ぼくの注意はまた逸れてしまうのであった。

しかし不思議なものだ。暴力行為、重度のイジメに犯罪行為……。みんな他人事のように話すが、それらをすべて事実だとすると、この界隈は、とんでもない危険区域になる。
いつか流行った集団風邪を思い出した。
自分のクラスにしたって、一部の人間に感化されて、クラス全体が悪い方向に流れている。それがもっと広い区域で起こったら。
大げさに考え過ぎだろうか。

だが、昨年、この想像に、暗いリアリティを与える事件があった。
ある学校で、生徒の変死体が出た。その死体は見るに堪えない姿だったようで、さまざまなグロテスクな噂が飛び交った。首から上がなかったとか、トラックに撥ねられた死体が遺棄されたのではないかとか。
生徒が死亡したこと自体は、噂ではない。新聞にも載った。
情報の少ないこの事件は、他殺の線もあるようだったが、結局、事件は迷宮入り。
その学校は、事件以前から荒んでいて、相当ひどい状況であったようだ。
それを物語るかのように、当初、この塾にも来ていた問題の高校の生徒は、ひとり来なくなり、またひとり来なくなった。
世の中には想像を超えた環境がある。自分なんて、ぜんぜんマシなほうだ。

この頃のぼくは、他人事のように考えていた。

◇ ◇ ◇

「じゃあね」奈々ちゃんが言う。
塾の前で、ぼくは手を振る。今日はコマ数の関係で、時間が早く、まだ日は沈んでいない。講義が終わったあとも、生徒たちは三十分くらいであれば、教室に残っていることができるのだが、奈々ちゃんは、今日はあまり時間がないと言い、ぼくもちょっと寄りたいところがある、と応えた。
昔から優等生タイプの彼女は、ぼくよりも偏差値の高い学校に通っている。その学校では試験やら小テストが大変らしく、このごろデートらしいデートが減ってきた。彼女の背中を見送って、ぼくは反対方向へ足を向ける。
 
ここに来たときの進行方向に沿って、さらに先に行く。
ぼくが塾に行くのは、当然、大学進学のためだ。ただ、それを保険としながらも、いちおう夢のようなものがある。
若者らしく、なにかを追いかけてみたいという気持ちが、ぼくにだってある。
言うのが少々ためらわれるが、お笑いを……と思っている。
が、それは、世間一般のイメージのお笑い芸人ではない。競争率が高くて、短命だし、ぼくはがつがつ前に出るタイプではない。もっと息が長く、目立たないけど、なんか面白い感じ。
どちらかと言うと、名脇役になりたいのだ。
たとえば、ドラマを観るとき、名前は知らないけど、よく見かけるといった出演者がいるだろう。こういう人のほうが、ぱっと売れた芸人より、確実に安定した生活を送っていると思う。派手さはないが、飽きない面白さ。使い勝手のいい、応用の利くタレント。

まさにその手本となる人物の住所が近くにある。
今、道の左右のうねりがなくなり、視界の先に、一本の急な坂道が見える。この坂の上に、その人の住所はある。塾の友達から仕入れた情報だ。
これまでにも何度か、その家の手前までいったことがある。敷地は広そうだが、外から見る分には、来る途中の民家と印象は変わらない。表札には、「盛口」と書かれている。
もし情報が正しいとするなら、芸名「セイウチ・ウォルラス」の本名なのだろう。

「盛口」の「盛」は、セイとも読める。名前の一部をもじって、芸名をつけたのだろうか。
また、セイウチとは――ぼくはネットで検索したから分かるのだが――北極に棲む、獰猛な、大きなトドみたいな感じの動物。
年齢不詳、六十歳は超えていそうな、小柄なその芸人は、小さくつぶらな目と膨らんだ頬、口のまわりの白髭に特徴があり、実際にセイウチのような愛嬌のある顔をしている。単にその連想で、セイウチを名乗っている可能性もある。
で、ウォルラスだが、ビートルズのナンバーに、「I’am a walrus」という曲がある。セイウチは英語で「walrus(ウォルラス)」。だから足したのだろう。
セイウチ・ウォルラス――適当な付け方に見えるが、国籍不明の怪しいキャラで売っている彼には、その胡散臭さが非常にマッチする。
これは計算じゃないだろうか。
バラエティ番組では、多くを語らず、その割りにはいじられて、毎回、どこか的を外した発言をする。さらには、振られたからといって、答えるとも限らない。間をとるだけとって、何も答えなかったり、途中で「なに話しとったっけ」と、どこまでが本気か分からない呆け方をする。
そのキャラが愛されている。まさに理想形、素晴らしい。
時々、本当に弟子入りしたくなるが、腹が決まらず、なかなか行動を起こせない。こうして堂々巡りをしながら、あるいは、本人にばったり出会えないかと期待して、たまに家の前を訪れるのがせいぜいだった。

この世界には一見してわからない境界がある。決して超えてはいけない一線。
呪術的な世界では、結界とも言われている。
ぼくにとって超えてはいけない一線が、セイウチ宅に続く坂だったのではないかと思う。

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