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#138 虹をつかもう 第17話 ――扉――

ぼくはセイさんの後ろにつき、玄関から見えていた二階への階段に足をかけた。
「静かに上がるよ」
そう言ってセイさんは、さっさと先に行く。見覚えのあるマイペースぶり。
階段とその先は薄暗く、明かりを点けるべき状況の気がした。
階段を上りきる手前で、一時停止する。階段をのぼってすぐの部屋を指し、セイさんが小声で言う。「そこ、わしの部屋だから、勝手に入っちゃだめだよ。用のあるときは、かならずノックすること」
「はい」ぼくも息を吐くだけの小声になる。
「あいは、一番、奥の部屋な」
老人は腕時計を見る。金色。ピカピカだ。小窓から差し込む細い光が反射して光る。
「帰宅してから、いま十五分じゃろ。あいつが着替えてる可能性が高いんじゃ。静かにいくぞ。そして、一気に入る」
「それ、まずいんじゃないですか」
「だって、わしのニックネーム、『エロじじい』じゃし」
関係ないし。
って、「あんたのも、木原がつけてるんかい」
「しい」師匠が口に指を当てる。
ごく自然に突っ込んでいた。
さすが、ニッチ芸人の巨匠。すばらしい技量……なのか?

師匠は、階段を上りきったところで、途中にいるぼくを振り返り、
「圧巻じゃぞ。Fカップ。ブラがすごいから」
そう言ってニカっと笑った。「はちきれそうじゃ」
不思議門をくぐってから、十五分。ぼくは老人の股間を見上げながら、すでに後悔しはじめていた。たしかにエロじじいで間違いない。
ああ……。ありがちではあるが、スクリーンのなかの芸能人を、ぼくは美化し過ぎていたのかもしれない。憧れは憧れでとどめておくべきだったか。

まわりが静かなためか、床板のミシっという音がいちいち気になる。二階の廊下は、幅が狭く、作りが小さい。光を取り入れるための小窓が二つあり、室内を頼りない細い光で照らしていた。
二階にトイレらしきものはなく、奥の部屋に向かう途中と、階段の反対側にも部屋があるようだった。部屋が多い割にはどうも、二階のつくりは対称性がないというか、不規則な感じがした。

廊下の突き当たり。薄茶色のシンプルなドア。
ここが……。
不思議坂に、不思議門に、木原の秘密が詰まった禁断のドア。本日、三つ目の扉をあける。セイさんが。
ドアノブをつかんだまま静止しているように見えたが、その手がわずかな速度で回転しているようだった。慣れた手つき。
そして、自然さを保ちながら、あとから、「あれ、気づかなかった?」とでも言えるような体で、すっと、だけど一気に入った。ためらいがない。師匠……。
けれど、ぼくも同罪かもしれない。あたまひとつ低いセイさんの後ろは見通しがよく、結局は、じっと凝視していたのだから。

驚いた。
何かしら驚くとは覚悟していたが、肝心の当人がいないのに、驚いてしまった。
年季の入った、畳六畳の狭い和室。それはいい。
そこには、たたまれた布団が二組み、並べて置かれていた。異様な生々しさで――。
部屋のスペースを考えれば、布団を敷いてしまうと、それだけで場所をとることが想像できる。他には、箪笥があり、押し入れがあり、部屋の隅の板張りの部分に、エレキギターと、赤と黒のアンプが置かれていた。
以前、聞いた爆発音は、ひょっとしてこのギター?
この部屋は、なんと表現したらいいのだろう……。
呆気にとらわれるぼくのうしろから、どすの利いた声。
「なにやってんだ」
ぎゃあ。
最強ヤクザ嬢! その単語が、頭のなかで飛び跳ねた。
木原がセーラー服のまま、壁に手をついて立っている。
ぼくはすがるように、師匠を見る。
「どんなトリックをつかったんじゃ!」そう叫んだあとで、師匠も同じ感じでぼくを見た。おいっ。
「エロじじいの部屋にいた」
「勝手に入るなって言ったじゃん」
「知るか。で、なに」
「あの……、こいつ、わしの弟子」
師匠はぼくのうしろに隠れるように立つ。だから!
「それ以前に、木原さんとはクラスメイトなんですけどね」
「あ、そうなの」
おまえら、もっとコミュニケーションとっとけよ。
「弟子って、そいつを?」
木原の目が大きくなる。
ぼくにまず、あなたたちの関係を教えてくれないだろうか。
セイさんがぼくの後ろから、「うん」と顔を出した。見た限り、この人たちの力関係は微妙である。
「おまえの天敵じゃぞ」
「へえ」
天敵って、ぼくが?
「じゃあ、キンショウスイってこと」木原が言い、「うん」とセイさんがまたうなずく。
キンショー? どうやら、あくまでもぼくを無視して話が進んでゆくようだ。
「そいつ、才能あるの」
「さあ、なながあるって言うし、あるんじゃね?」
ええ、さっき、何点とか言ってたじゃん。
「ふーん。それで、あたしに何の用?」
「こいつの名前を考えてほしいんじゃよ」
弱々しいセイさんの声に、なるほど、そういうことなら仕方ない、といった様子で、木原が宙に目をやった。考えはじめたようだ。そんな理由で納得するんだね……。
「『なな』も、あいが考えたんじゃ」セイさんが言う。
「まあ、そのままですけどね」
「かわいいからじゃって」
「かわいい、ですか」木原の携帯の、ウサギの絵柄を思い出した。
「いい名がつくといいのう」
師匠がそう言った矢先、木原が謎の単語を口にする。「じゃあ、あまお」
「はい?」
「雨男って書いて、あまお」
「…………」
セイさんはぼくを見て、憐れんだ顔で、うなずいた。

「雨男(あまお)、どうする。ここ、住むか?」
直後からぼくのことを雨男と呼ぶセイさんに、「どこか空いた部屋があるんですか?」と、木原から、なんかそんな顔してる、と言われたぼくが質問で返す。
「ここ、ここ」
「ここって、この部屋ですか? 木原さんの部屋なんですよね」
その木原は腕を組んで、立ち話をするぼくらから、一歩引いて立つ。
「まあ、工夫したら、三人いけるんじゃね?」
「三人って、他にもいるんですか」
「ななにきまってんじゃん」
「ええーーー」
この二つの布団って。
「いえ、でも、お邪魔じゃないですかね」
「なんで?」
ぼくは木原を見た。一瞬、政治家息子との一戦で見せた殺気を感じた。
「けっこうです。ぼく、家が近所ですから」

同棲。しかも、ぼくの憧れの芸人、セイウチ・ウォルラス氏の家で。
二人はつき合っているのかもと、疑ったのがさっき。校門を出たときだ。この展開は突飛すぎて、思いつきもしなかった。
いろいろなことがあり過ぎて、もう消化不良……。
「えっと、七瀬さんは今日どちらに?」話題を逸らす。
「友達んち」
また、強烈な突っ込みどころが。今日はもう、突っ込まんぞ。「そうですか……」
「ワシもそろそろ出かけるから、まあ、ゆっくりしていって」
「いやっ、ぼくも用事がありまして!」
木原と二人! もたない。ぜったいにもたない。
「そうかあ。じゃあ、毎日きてな。ワシいるか分からんけど」
「はい」
突っ込まないよ? そのくらいの不条理、いまさら……。
「来る前に、10キロ、ランニングしてから来てね。足腰、大事じゃから」
そのとき頭のなかに、最近、やたら鋭くなってきた危険警報が鳴った。「……ちょっと、確認していいですか?」
「ん」
「念のためなんですけど」ひとつ、さすがにこれだけは、という確認事項がある気がした。「ぼくって、その、なんの弟子ですかね」
「雨男、金属に触ると、水が出るじゃん」
「はい」あれは、水、なのか?
「もっとたくさん出たらすごくね?」
「ええ……、まあ」
「その弟子」
「ええー!」
冗談だ。老人は、冗談を言っているに違いない。だってプロの芸人さんなんだもの。わー、おもしろいなー。ぼくは意識が遠のいてゆくのを感じた。 

金生水――金は水を生じる。
帰宅後、舐めてみた水滴は、まったく塩気がなかった。

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