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#133 虹をつかもう 第16話 ――憧――

考えている暇はない。手間取って、政治家息子や他のやつらと鉢合わせになったらシャレにならない。ぼくは死に物狂いでダッシュして、教室の机から、ぼくと木原の鞄をとり、走って走って、なんとか校門を出た。
息がぜいぜいする。今後のことを考えると、ぼくは重点的に、脚力を鍛えたほうがいいのかもしれない。
あの人はどこへ向かったんだろう――。
以前、セイさん宅へ続く坂道で、姿を見かけたことを思い出す。その方角に走り、後ろ姿を見つけた。
 
木原は、肩で息をするぼくから無言で鞄を受け取ると、中を探り、携帯を取り出した。メールチェックをしている様子。
学校ではそんな仕草、見たことがない。そしてそこで目についたのは、可愛いウサギのスマホケース。ええ! ここで笑ったら、殺される。助けてもらっておいてなんだが、中庭の惨劇がちらついた。
心中を悟られないよう、顔面を硬直させる。
「連れてこい、ってメール」
「は」
「うっとおしい」
「ひょっとして、七瀬さんからですか?」ぼくは、この怖い人に対して、当然のように敬語になっていた。
彼女は特に応えない。だけど、そう思って間違いなさそうだった。
「さっきは、むかつくやつ蹴れたからいいけど」
いいのかよ。
突っ込む。心のなかで。

「勝手についてきて」と彼女はあくまで不機嫌そうだった。
「木原さんと七瀬さんって、お知り合いなんですか」
同じクラスなのに、知り合いという言い方も妙だったけど、他人と呼んで構わないくらいの距離感があった。なのに、まさかメールをやり取りする仲だったなんて。
「けっこう前から知ってるけど」少し自慢げに聞こえる。
「え、そうなんですか?」まったく気づかなかった。クラスでは、お互い、あんなに無関心に見えたのに……。
つき合っているから、無関心を装っている? とも思ったけれど、二人ともすべての人間に対して無関心だからよくわからない。

ぼくが塾に行くときのルートを辿り、途中、普段使わない小道に入る。
「木原さんは、七瀬さんと同じアパートに住んでるんですか」
道中の沈黙に耐え切れず、そう話を振ってみた。
「はあ?」
あれ……。
「セイウチさんの住まいって、アパートなんですよね?」
「あんた、バカ?」
この人、苦手だ……。
「一緒に住んではいるけどね」
「ええ!」
そう言う木原は、少し照れ臭そうだった。普段無表情なだけに、表情の少しの動きで感情が出る。実はわかりやすい人?
その後のぼくは、無理に会話をするよりは沈黙を選び、黙って後ろについていった。

不思議坂をのぼる。今、ぼくがそう命名した。
この坂をのぼると、予想し得ない何かが起こるのだ。今日も、その予感がびりびりとする。
急坂をのぼる木原の後ろ姿を眺める。数メートルの至近距離で。
腰近くまである美しい髪を眺めていたぼくは、そういえばと、形のいい足を見る。ほどよい肉付きの太腿が、足首に向かい、すっと細くなる。この足のどこにあんな威力が宿るのか。
蹴りの要は、腰であると、格闘好きの友人の言葉を思い出した。お尻は大きすぎず、少し突き出ている。腰にははっきりとくびれがある。
木原が振り返った。
「やっぱ、あんた、前あるいて」

見慣れた門構え。やってきた。憧れのお笑い芸人セイさんは在宅なのだろうか。今はセイさんのことだけでなく、この家が、七瀬が、木原が、すべてが気になる。
木原はぼくを追い抜き、中に入っていこうとする。
「あの、ぼくは」
「わたし、連れてきただけだから」
扉を押し、彼女が門の中に消える。ガチャっと鍵をかけた音がした。ええ!

ここ、インターフォンないんだよな。盛口の表札を眺める。はあ……。
ため息をつき終わらないうちに、突然、ガチャ、ばん、と戸が開いた。
「君が、ワシに弟子入りしたい人?」甲高くて、よくとおる声。
老人が、いた。セイウチ・ウォルラス。

突然の登場に、すぐ反応できない。目の前の芸能人は、テレビで見るよりも小柄に見えた。そして、八重歯の目立つ本物の顔は、思っていたよりもずっと、ネットで見たセイウチに近い。
老人は、襟のない、白色の、足元まであるだぼっとした服を着ていた。
「は、はい」どもりながら応える。
「意外と厳しいよ」
ぼくも、老人に負けじと声を大きくする。「ぜひ!」
「君、暗い感じがするのう。笑うことを忘れておらんか」
「ええ、個人的にいろいろありまして、人生レベルで」
「まあ、入るがいい」
ついにこの門をくぐるときがきた。感動を覚えると同時に、緊張した。
――不思議門。今度は、そんな言葉が思い浮かんだ。

大きな門の向こうに、昔ながらの日本家屋がある。門からの距離は短く、左右に回れば庭があるようだった。
がらがらと軽快な音を立て、玄関の戸がスライドする。セイさんの背中越し、ぼくの視界に、全体として濃い木目の色調が飛び込んでくる。玄関を見る限り、家の造りは、外からの印象ほどは広くない。
玄関からすぐ、障子の小窓のついた壁が見え、その脇には階段がある。黒っぽい木材と、日当たりの関係で、家のなかは少々暗く見えた。
「左手がキッチンな」
「はい」
セイさんは、後ろに手を組んで、そのキッチンへと入ってく。
ぼくもついていけばいいのだろうか。「お邪魔します」靴を脱ぐ。

キッチンは、完全に普通だった。日本家屋の趣がまったくない。何年か前に、そこだけ改装しましたといった感じで、白い壁紙は新しく、庭に面した角の二面はガラス張りになっている。ガラス越しに、手入れの行き届いた庭が見えた。大小の庭石があり、池があって、鯉もいた。
現在、四時半。
角度をつけた陽射しが、部屋をまぶしく照らす。

「まあ、座って」セイさんが言った。
四人が座っても、ゆったりと場所をとれる、長方形の木のテーブル。椅子のひとつに腰かけた。テーブルの角には大きなRがある。
どうやらここは、キッチン、プラス食卓といった場所のようだ。
「これでええかなあ」引き出しをごそごそやっていたセイさんが、ぼくの前に立つ。急いで立ち上がった。
ぼくも背の高いほうではないが、セイさんは頭ひとつ小さい。
たしか七十五歳、そのわりに背筋は伸びている。
「だいたいのことは、ななから聞いてるんじゃけど、はい、テスト」
テストの言葉に身構えるぼくに、セイさんが差し出したもの。それは、鈍く光る銀色のスプーンだった。

セイさんお得意のシュールなジョークかと思ったが、その顔は真剣。彼を師と仰ぐぼくには分かる。真剣でも、たいへんおもしろい顔だった。
考えられることは唯ひとつ――。
これでボケろと?
シンプルなだけにレベルが高い。

セイさんは、じっとぼくを見る。
「深呼吸して」
緊張を、見透かされてる。
まずい。一発ギャクは苦手なんだ。
とはいえ、好き嫌いを言える立場にぼくはいない。
ああ、じっと握ってたら、また汗が。滴がスプーン伝う。
高まる緊張感――。
タイムリミットだ。やるしかない!
がばっ。スプーンを学生服の脇に挟み込んだ。「体温計!」声を張る。汗がしたたるのを隠そうとして思いついた。

真剣勝負。
その後に訪れるのは、互いに刃を振るったあとの沈黙。
…………。
「合格」「ありがとうございます!」
ばっと頭をさげた。

ほっとした。自分ではなにが面白いのかさっぱりだが、とっさの機転という意味では、なかなかのものだったのかもしれない。
「ほんとは、基準の半分もいっとらんけどな」
「そうなんですか?」
「合格点が七十点とするじゃろ。今の三十点。わしのファンってことで三十点おまけ。あとは、あまりいないタイプってことで、十点おまけかな。ぎりぎりじゃぞ」
きびしい。そしてちょっとうっとおしい。
今のネタは、ぼくの真骨頂ではまったくないが、あまりいないタイプというのが嬉しかった。
「しかしワシのファンとは、なかなか見所がある」
目元に皺を寄せ、老人は温厚そうな笑みを浮かべる。テレビのままのセイさんに、ほっとする。「いやあ、はじめて、まともそうな弟子がきたわい。君、犯罪歴とかあったら、早めに言ってね」
……不安なひとこと。
「まず、あんたの名前をつけんとな」
「付けていただけるんですか」芸名だ! これは、けっこう大事な場面じゃないのか。
「あ、ゆっくりでけっこうですよ」
「いや、すぐじゃよ」
「……はい」身をただす。
そういえば、老人は先ほどから、じっとぼくを観察している。スプーンを慌てて、テーブルに置いた。「スプーン三田」なんて芸名は、正直きつい。
いったいどんな名がつけられるのだろう。手ぐしで髪をととのえた。
老人の口から、今まさに言葉が出ようとしている。ぼく三田隆は、自分なりの決め顔をした。
見つめ合う師弟――。
そして、「ワシじゃないよ。あいがつけるから」
がく、っとくる。さすが。
じゃなくて、「あい、って木原愛ですか」
「うん。二階にいるから、行こうか」
突然の展開に戸惑う。「待ってください。木原さんって、ここに住んでるんですか? その前に、えっと、七瀬さんから、ここ、アパートだって聞いたんですけど」
「アパート? うまいこと言いよるな」セイさんは、首を斜めにしたまま言う。「あいつにとったらそうなのかものう。家賃は、金じゃないけどね」
「はあ」正解が見えてこない。
「君も住んでいいよ」
「えっ、いいんですか」住み込みってこと?
「とりあえず行こうか」セイさんがキッチンを出て、玄関のほうへ行く。

どうすべきだろう。セイさんは軽く言うが、ぼくにしたら重要な決定である。住み込みともなれば、親に話さなければいけない。どう説明する?

というか、ぼくはここで、具体的になにをする?

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