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散歩しかしてない



ワイヤレスのイヤホンの片方がどこかに行ってから2年くらい経った
有線のイヤホンが壊れた
だからヘッドホンで音楽を聴いている
頭の真ん中に音が流れる 自分の中心に音がある

音楽は音楽だと思っていたけど、様々な音楽の形があることを思い出した
それらは全部作品であると私は思うけど、より音や言葉として伝わるものと、作品として伝わるものがあると思った。なんか言語化しにくい
私の中ではどちらも尊重されるべきで大切なものだと思った、どちらも必要

サブスクで音楽を聴くようになって多分2年くらい経った
CDで音楽を聴きたかったからサブスクが流行り始めた頃はしばらく、CD派みたいなのを貫いていた(ジャケや帯の裏や歌詞カード、開ける時のぺりぺりのワクワク込みでアーティスト達が気持ちを込めて生み出したものと思っている+英詞の和訳や歌詞を見ながら聞きたい+好きなアーティストのサブスク解禁が遅かった+彼らにお金が入るのか不安だったから、など)。

今もCDは買うけど、サブスクのありがたさに気づいてしまったので買う頻度は減ってしまった。悔しい。心の中で少しのサブスクアンチだった為サブスクを使う時は勇気がいった。でも自分にCD市場を守る力はない。CDがいつか、「何それ」になることがこわく、かなしい。どちらも大事にしていきたい、のに

日々の選択で、変わっていくこと、そのままを維持できること、色々あるだろうけど 
もう少し自分に余裕がないと自分がしたい選択ができないことに気づいた
このままじゃダメだー


テレビをつけると歳下で活躍する人がどんどん増えてきている
自分がテレビに出たい訳じゃないし、なりたいものが違うのだから(多分)比べる必要なんて全くないんだけど(自分がどうなりたいか分からないけど今の自分がなりたい自分では全くない)生まれてから10数年で、経験を積み重ねたり、自分と向き合ったり、努力したり、動き出していることがかっこいい
それが実を結び始めていることがほんとうに凄い

よく、おじいちゃん世代の人たちにお誕生日おめでとうというと もうめでたくないけどねぇ と言うけどそれは別だよ!と思ってた
けど今年22歳にしてそれを実感したよ、おじいちゃんごめん

変化したいのに進みたいのに何をすることもできない。自分のためなのに何も頑張れない。何もしてない日々を終わらせたくなくて朝手前まで起きてしまうけど何もしてないので意味がない
全部、自分なんだけど
このままだと確実に全て死ぬのにね

死ねないので生きるしかないし
生きてる間は生きなきゃいけない

もっと懸命に生きたい
頑張れてた自分はどこに行ったんだろう、どうやって生きてたんだろーか
動き出すしかないと思うよ自分へ

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