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#12 ボタンを押すだけ

ご無沙汰しております。

 と書き出してみたものの、このnote読んでいる人ってどのくらいいるのでしょう…?なんて見も蓋もないことを言っても仕方がない。

 しばらくnoteを書く気になれなかったのは、仕事が忙しかったこともあるのだけれど、それ以上に「自分なんかに言うべき言葉があるのか」という迷いが生じていたから。というのも、このnoteはあくまで《私の視点》からみた我が家の話でしかなく、アルさんの視点に立ってみると「それは違う」という点も多いのであろうし、それをこうして公開することは果たして正しいのか、正直よくわからなくなっていた。そうなると何を書いていいのか、何が書きたいのかもわからなくなって、気がついたら学期末になっていた。

 それでも、また再開しようと思ったのは、相変わらず主婦・主夫の仕事(家事)を軽視するようなことを言っているひとを見かけるし、「フェミニストは男を養わない」「フェミニストは男に守られたがっている」などのトンデモ発言を見てしまうので、やっぱりいちフェミニストとして、性別役割分担のアホらしさについて発信しておきたいと思ったからなので、今後もぼちぼち続けていこうと思う。

 私の仕事は非常勤講師なので、学期末の時期であるここ数週間はかなり忙しかった。それで改めてアルさんと私の家事分担について考えてみたのだが、その結果、私は実際のところ、あまり家事をやっていないかもしれないと気づいてしまった。

 私が担当しているのは、帰りが遅くない日の料理、たまに買い出し、たまに洗濯、とてもたまーに食器洗い。ほぼ毎日やっているのは風呂桶のお湯を流すついでに掃除することくらいで、それ以外はアルさんがやっている。掃除、洗濯、買い出し、食器洗い、ゴミ捨て(もちろんゴミをまとめるところから)、洗剤等のストック確認と補充etc. もっと他にも細々としたものがあるけれど、ざっと思いつくだけでもこのくらいある。

 料理はある意味《目立つ家事》で、やっていることが目に見えるし、「おいしいね」などと評価の言葉もかけてもらいやすい。もともと料理が楽しいからやっているわけだし、時間が余程ない時以外はそれほど苦痛でもないし、時短料理を工夫するのも楽しかったりする。

 それに比べるとアルさんが担当している家事は《見えにくい家事》だと思う。誰かがやっておかなければ不便だったり困ったりするけれど、やってある状態が当たり前になってしまいがちで、評価や労いの言葉をかけられにくい。私自身、やってもらっていることを当然と受け止めてなかったか、と問われると自信がなくなる。もっと労いの言葉をかけるなり、私ができるときにはやるなりしていかないと、これでは世の《“誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ“男》と変わらなくなってしまうぞ!と危機感を覚えたところなのだ。

 仕事が立て込んでいるときなどは早い時間に帰宅できても料理も全部アルさんにやってもらうことも多い。料理が好きでやっている私と違って、超得意分野とまでは言えない上に妙に要求水準の高いパートナーのためにやるとなれば、なかなか大変だ。その辺りも含めて、やっぱり賃労働をしている人間は気を抜くと家事労働という労働の存在を忘れがちなんだと自戒する。「男だから」気づかないのではないし、「女だから」いつでも気づけるわけでもない。それどころか、うっすら家事をやらないといけないかなと気づいていても「アルさんがやってくれてるからいっか」と任せてしまうこともある。きっとそれは男性も同じなのではないかと思う。

 こういうことはひとそれぞれで、「夫に下手に手出しをされるよりも一人で全部やった方が楽」という女性の意見もみたことがある。どれが正解というわけではないけれど、家事育児を全部妻に任せている男性に「家事なんてひとりでもできる程度の仕事」「3度の飯に昼寝つきでしょ?」みたいには思わないでほしいなぁと思う。その3度の飯を用意して食器洗いもしているのは主婦なのだから。「家事なんて家電のボタン押すだけでしょ?」と言っている男性も見かけるけど、ボタンを押すまでの間にだいたいいろいろとやらねばならないことがあるからね。

 そして、そんなに「〜するだけ」だと思うなら、君がやってあげればよかろう。仕事が忙しい?疲れてる?いやいやいや、だってボタン押すだけでしょ???

To be continued...


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