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《番外編》なぜ、みんな結婚していくのだろう。

「なぜ、みんな結婚するのか」

 長いことそう思ってきたし、今でも婚姻制度そのものに問題がないとは思わない。それでも、自分も結婚してしまった。

 小倉千賀子だったか、「嫌いなものは『結婚しているフェミニスト』」という人さえいるし、「ネット上などで男の加害性について発言している女性に彼氏がいたり結婚していたりするのが謎」というひともいる。

 私自身は結婚生活や結婚式、新婚旅行などにキラキラした憧れを抱いてはいなかったし、結婚の内実が決して幸福とは限らないという例はたくさん知っていた。自分の親世代はまだお見合い結婚もそれなりにあって、結婚することが普通というか当然だったと思うが、私たちの世代は違う。大学の授業にジェンダー論があったり、男女平等ということを少なくとも表面的には肯定する世の中で育ってきたはずだ。私が親しく付き合ってきた友人の多くがジェンダー論に関心を持ち、なんらかの形で日本の戸籍制度や「家」制度に疑問を持ったり反発を覚えたりしていた。選択制夫婦別姓さえ認められないなか、当然のように女性の方が姓を変えるものという前提で話をふられることもあったし、自分でもその価値観に染まっていた時期もあった。

 私の周囲はそれでも結婚が遅い人が多い方で未婚の友人もけっこういる。普通の会社勤めをしていないこともあってか、ご祝儀ラッシュでお財布が…というようなこともあまりなかった。しかし、それでも「ああ、みんな結婚していくものなんだなぁ」と嘆息するくらいには、みんな結婚していった。(この「いった」はいわゆる「嫁ぐ(嫁に行く)」という意味ではなく、結婚という行為を遂行していった、というニュアンスと思ってほしい。機能動詞的な感じで)

 さて、かくいう私は、「結婚したい!!!」という意味での結婚願望はなかったけれど、「ずっと一緒にいたい」「一緒に暮らしたい」と思えるようなひとが現れてほしいという意味での結婚願望はあった。それは必ずしも婚姻という形式を取る必要はなくて、同居でもルームシェアでもいいんだけれど(同棲という単語がなんとなく嫌い)対等なパートナーシップを構築できる大人同士で、そこに恋愛感情もあっていい、という感覚。その一方で大恋愛への憧れもなかったわけじゃない。

 最初から「この人と結婚するのかも」と思って付き合っていたひととは結局結婚しなかったし、相手が結婚を前提にしているらしいと気付いて嬉しいというよりは少し面倒だなと思った過去もある。


さて、なんで私は結婚したのだろう。

 もちろん「ずっと一緒にいたい、一緒に暮らしたい」と思ったからだし、その一方で「一生会えなくてもこの人を好きだという気持ちは変わらない」と思ったからでもあるのだけれど、婚姻関係にないとお互いに何かあった時に困るからというのも大きい。パートナーです、と言ったところで法的な権利が何もないというのはキツい。法的な結びつきがなくても精神的結びつきがあればいい、と言うには私の仕事は不安定すぎるし、アルさんの体調の不安もある。法的に保証された関係になっておかないことのデメリットは、法律婚しているメリット以上に結婚の理由になりうる。

 日本の婚姻制度の不備を知っているからこそ、自らがその制度を利用することで制度維持の加担者になりたくないというひとがいることを私はよく理解できる。ただ、フェミニストたるもの、常に不平等の最前線に立って不便や制度の不備の犠牲になりながら改善を訴えねばならないとするなら、そんな大変なことには関わり合いたくないと大抵の人は思うのではないか。

 本来はそれぞれが仕事をもってそれぞれに収入がある方が対等なパートナーシップを築きやすいし、どちらかが賃労働でもう一方が家事労働という分担はどちらかが欠けた時の影響が大きすぎる。それがわかっていても、その理想通りにいかなくても、それでも一緒に過ごした方がいいと思えるから私とアルさんは結婚しているのだと思う。私たちは理論上の存在ではなく、現に生きて生活しているのだから常に理想通りにはいかないし、時には旧来の制度や習慣に巻き込まれたり、知らず知らずのうちに悪習に加担してしまったりすることもあるかもしれない。でも、それも少しずつ修正しながら、個々人が1番自分らしく幸せに生きられるように社会を変えたいという気持ちはいつも持ち続けている。


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