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#11 期待のハードルの高さ

 二十数年前、家庭科の時間にみんなが遊んでしまっている中、ひとり鍋を見守っていた私に「いいお嫁さんになれるよ」と言ってきたひとがいた。今から振り返ると、「目の前の相手が異性愛者で、将来結婚し、その結婚生活において女性であるから家事を担うはずである」と信じて疑わないってすごいなと思うけれど、当時の私は「なんだかなぁ」と思いながら曖昧に微笑んだだけだった。

 「将来、自分の奥さんには①専業主婦になって家にいて欲しい。②仕事をしてもいいけど家事はしっかりやってほしい。③仕事をばりばりしてほしい、どれか」と家庭科の先生が男子にだけ挙手させた。ほとんどの男子は②で手を挙げた。さすがに①は女子からの顰蹙を買うだろうと考えたのだと思うが、家事は女性がするのが当然という考えには疑問を抱かなかったらしいし、女子も②に挙手する男子のことは「まあまあ分かってる」奴らのように受け止めていた気がする。女子のブーイングを受けながらも①にたった一人まっすぐに手を上げたK君はある意味偉かったかもしれない…。

 私は家事を女の役目だと思ったことはなかったし、そのように躾けられたわけでもなかったけれど、様々な場面で男性が当たり前のように家事をしないのを見て生きてきたので、中学生くらいまではどこかで自分もいつか結婚したら家事を担当するのだろうと思っていた。その意識が微妙に変ったのは高校生になってすぐの頃だったと思う。

 掃除や洗濯、片づけはともかく、料理は面倒くさそうだしあまりやりたくないし、料理はやってくれるひとと暮らしたいなとぼんやり思い始めた。それを「いいお嫁さんをもらわないとね」と表現されたことがあり、それをそのまま使っていたこともあった。「私は嫁にいくのではなく、嫁をもらうのだ」と考えた当時の私は、自分は充分に女らしくない変わった女子だと思っていた。一方で、まだ「嫁」という言葉への違和感をそこまで意識せずにいられたらしい。

 「女子力」という言葉はまだそこまで普及していなかったはずの90年代、家事ができる=いいお嫁さんになれる、という言説に徐々にもやもやを抱え始めた私は、「いいお嫁さんになれるね」などと褒められてたまるか!と反抗心を発揮し、積極的に家事をしないという、親にしてみたら迷惑でしかない方法で女性性への抵抗を始めたのだが、そもそも私の母は「家事なんか必要になればなんでもやるでしょ」という感じで、「女の子なんだから」という理由で家事を無理に手伝わされたことなど一度もなかったのだった。

 大学生になっても、大学院に進んでも、飲み会で大皿料理を取り分けたりなどせず、自分の分をちゃっかり自分の皿によそい、テーブルを拭いたりなどせず、お酌も一切しないという「女子力ないです」アピールを繰り返していたのだが、実は気が利いてしまうので誰にも気づかれないようにテーブルの空き皿やグラスを店員さんが下げやすい位置に移動させたりしてはいたのだ(多分本当に誰も気づいていない)。

 家事をする女性もしない女性も、とにかく「家事と女性」を巡る言説に晒され続けて大人になる。まるで女性であればできるのが当たり前であるかのように言われる一方で、家事能力は「結婚相手としての魅力」としてアピールされるし、実際にそれを結婚の条件と考えている男性もいるだろう(お互いにそれでいいなら、そのこと自体が悪いわけではない)。

 そう考えてみると、主婦に対する期待のハードルは主夫に対するそれとは別のものになるのではないか。専業であろうと兼業であろうと、主婦には家事力は当たり前に装備されているもので、足りないところがあれば欠陥として扱われるが、主夫にはそうした家事を巡る言説がまだほとんどない。どちらかと言えば「家事をする男性=先進的でえらい」というイメージが強く、多少うまくないところがあっても「でも、やってくれるんでしょう?優しい旦那さんじゃないの。羨ましい」と不平を言う側が戒められることもある。もちろん、「不平」の内容が理不尽なことは大いにあるのだけれど、これが主夫ではなく、主婦に対して発せられたなら、おそらく咎められることはないんじゃないかな、という気がする。

 私とアルさんの場合なのだが、私は、これまでの人生において周囲に家事が得意なひとが男女問わず多かったため、どうも要求水準が平均値より高いらしい。こちらとしては、自分の母などと比較したり同じようにやれと言ったつもりはなくとも、期待のハードルが高いことで評価が厳しくなり、アルさんに「えまさんをがっかりさせた」と反省をさせてしまったり、「えまさんに怒られないようにしないと」とプレッシャーを与えてしまっていたことは非常に反省している。「みんなそこまでこだわらないよ」とアルさんから言われることもよくあった。確かに、そう言われてみるともっと適当にやってても大丈夫か…と本人としては最近はだいぶ大らかになったつもりなのだが、アルさんの方の適応能力があがっているだけで自分は変ってないようにも思えるので、ときどき我が身を振り返ることを忘れないようにしたい。

 アルさんがどの程度、自分の家事力を実の母親や私の母親と自分で比較したり、あるいは比較されていると感じたのか、それははっきりとはわからない。しかし、一般的には女性の方が家事能力への期待のハードルが高いため、おそらく(主夫よりも)主婦の場合の方が厳しい評価を得ることになり、自尊心を削られる原因にもなるのではないか。主夫の場合は、(ほとんど家事をしない)自分たちの男親たちと比較すれば充分に及第点だし、(家事が得意であるとされる)女性との比較は性別の違いというもっともらしい理由で回避できなくもない。

 誰にも到達できないような理想の主婦像というものがあって、そこからの引き算で評価される女性と異なり、男性には特定の主夫像がまだないため自尊心を変に削られることは少ないのではないか、という気がする(ただし、ロールモデルがないということは、迷いとか不安に繋がる可能性もある)。つまり、主婦と主夫は、仕事内容は同じだけれど、置かれている立場はけっこう違うのではないか、と感じている。

 というのも、家事や育児に積極的な男性であっても、なにげなく性差別的な言動をしているのを目にすることがあるからだ。また、家事や育児をすることで「女性の苦労がわかった」と女性を代弁してしまうひともたまに見かける。しかし、女性が女性であることで課されるハードルは男性にはなかなか経験ができないし、逆も実体験として知ることは難しい。家事育児をめぐる女性差別的な言説の存在を無視して語れることもあるかもしれないけれど、やはり両者は分かちがたく結びついているので、家事をしている男性で全くフェミニズム的なことに関心がないらしいひとや「女性も男性も《らしさ》に縛られるのをやめましょう」という個人の問題と捉えているひとを見ると社会構造に組み込まれている差別というものはマジョリティには見えにくいのだということを再認識させられる。

 私自身、自分がマジョリティ側にいる差別構造にはなかなか気づけなかったし、今でも気づけていないこともあるだろうと思うので、指摘してくれるひとがいたら、それは心地よい話ではないかもしれないけれど、きちんと耳を傾けたいと思っている。

to be continued...

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