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No.49 国の象徴か

私はお年寄りと話する機会に備え、相撲の情報もそこそこ頭に入れている。若輩者ながら、お年寄りの前でお話させていただくときには、だいたいが相撲の話から入る。

今日、横綱稀勢の里の断髪式が行われ、正式に稀勢の里あらため荒磯となった。

力士にとって大銀杏とは、その象徴である。断髪式ともなれば、これまでのいろんなことが思い起こされるのだと思う。

長らく相撲界には日本人横綱が不在であり、現役の白鵬をはじめとしたモンゴル勢横綱が相撲界を牽引してきた。その中で、稀勢の里が横綱となり、数多くの相撲ファンが期待を膨らませたことは記憶に新しい。

このモンゴル勢横綱がもたらしたものは、相撲界にとって栄光か悲劇か。相撲界で起きた不祥事などを含め、数々の議論がなされてきたところである。

以前、親戚のおっちゃんが「相撲は国技であってスポーツではない」と、スポーツとして相撲を楽しんでいた私にそう言った。

たしかに、力士、関取衆はアスリートである前に、国の象徴たる国技として、その立ち振る舞いや儀礼というものを重んじなければならない。特に、横綱ともなればその頂に君臨するものである。しかしながら、観るものにとっては国技として観ることもスポーツとして観ることも自由である。

国技としてという前提に立ったとき、モンゴル人であるとか、外国人であるとか、日本人であるとか、少なからずこういったところが話題になる。ただ、スポーツに国境はない。政治も宗教も一切関係ない。

白鵬は強い。憎たらしいほどに強い。けれどもその強さゆえ、観る人を虜にする。あの圧倒的強さは、日本人横綱であった稀勢の里には無かったものである。横綱には品格も問われる。ただ品格だけではあの強さに至ることができない。それ相応のアスリートとしての努力もあったはず。

稀勢の里はテレビで「白鵬、鶴竜、日馬富士のモンゴル人横綱たちがいたからこそ、今の自分がある」と明言していた。

国技であるか、スポーツであるか、その本質は重要なところかもしれないが、国を越えて相撲で切磋琢磨しあってきた横綱の姿に感動した。

あらためて、日本国籍を正式に取得した白鵬の東京オリンピックでの土俵入り披露を楽しみにしたい。

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