思う壺
友人と出かけた際、電車の中で劇団四季のポスターを見つけた。
『劇団四季のオペラ座の怪人は凄いらしい。』
「らしいてなんやねん!言い切れや!自信持てや!そちら側が自信ないんやったら見に行かんで。」
と友人が勢いよくツッコミを入れた。
「言う通りや。天下の劇団四季様がそんなんやったら、こちとらどんな劇すればいいんや。」
と私はケラケラ笑いながら、そう返した。
劇団四季と言ったら、日本で最も有名な劇団だ。凄いということだけは知っている。見に行ったことこそないが。圧倒的な人気と実力がある劇団四季が、自ら『凄いらしい』という保険をかけたような表現を用いることに、何となくモヤっとした。
あれだ、思い出した。圧倒的にかわいい同級生が、かわいいと褒められたら「そんなことないよぉ。でもこの間ナンパされたんだよね。かわいいなんて自覚ないんだけど…。」と言っていたあれだ。絶対に自信があるのに、素直に認めず周りに評価された事実から、自分はかわいいと証明するあれだ。そんな彼女に対して、私は何も言えなかった。なぜなら圧倒的にかわいい。
…失敬、劇団四季の話とは全く関係がない。
話は戻る。
おそらく、いや絶対に、『劇団四季のオペラ座の怪人は凄い。』と言われたところで、「そうやろうな。当たり前やん。」と言って、華麗にスルーする。いや、わざわざ話題にも上げない。
そういうことだ。
我々は、このポスターにツッコミをかましている時点で、劇団四季の思う壺なのである。気になってしまっている。華麗にスルーするどころか、華麗に引っかかった。悔しい。
たぶん、そのことに友人はまだ気づいていない。見事に広告の罠に引っかかったにも関わらず、今その話をしても同じように言うだろう。
「自信持てや!」と。
壺にどっぷりはまっている。
その点、早い段階で罠に引っかかっているということを自覚した私は、まだましだ。
危ない、危ない。
つまり、言いたいことは、広告として非常に効果的なキャッチフレーズだということ。
『らしい』という3文字を付け加えただけで、どうしても気になってしまう。それが人にどのような印象を与えるかはそこまで重要ではなく、とりあえず注目させる。
人とは違う、思うようにはいかないわと思いたかった私も、人間の心理にしっかりと漬け込まれた。
ただ、しつこいようだがこれだけは言わせてほしい。私は、この罠を見抜いた。やはり人とは違うのである。見識が高いとでも言っていただこうか。
というのは1年前くらいの話で、つい最近、またオペラ座の怪人のポスターを見かけた。
それも、先ほど登場した友人と一緒にいた時だった。
「オペラ座の怪人見に行きたいんやけど、」
おや?
「やっぱり劇団四季っていいよな。」
「、、、確かに!私も見に行きたい。」
大げさに共感した。
友人と別れ、帰りの電車、惰性でGoogleを開く。
“ 劇団四季 オペラ座の怪人 いつまで 検索 ”
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?