「乙武の歌を聴け」

「完璧な乙武などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

乙武が大学生のころ偶然に知り合ったある乙武は乙武に向かってそう言った。乙武がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれはある種の乙武としてとることも乙武であった。完璧な乙武なんて存在しない、と。

 しかし、それでもやはり乙武を書くという乙武になると、いつも絶望的な乙武に襲われることになった。乙武に書くことのできる乙武はあまりにも限られたものだったからだ。たとえば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。

8年間、乙武はそうしたジレンマを抱きつつけた。8年間。長い乙武だ。

もちろん、あらゆる乙武から乙武を学び取ろうとする乙武を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの乙武ではない。これは一般論だ。

20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、乙武はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、 また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて乙武に語りかけ、まるで橋をわたるように乙武を立てて乙武の上を通り過ぎ、そして二度と戻っては来なかった。乙武はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして乙武は20代最後の年を迎えた。

今、乙武は語ろうと思う。

もちろん乙武は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは乙武は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、乙武を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな乙武にしか過ぎないからだ。

しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。乙武が正直になろうとすればするほど、正確な乙武は乙武の奥深くへと沈み込んでいく。

弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現実の乙武におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも乙武はこんな風にも考えている。

うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された乙武を発見することができるかもしれない、と。そしてそのとき、象は平原に還り乙武はより美しい言葉で乙武を語り始めるだろう。

もう一度乙武について書く。これが最後だ。

乙武にとって乙武を書くのはひどく苦痛な乙武である。一ヶ月かけて一乙武も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙げ句それがみんな乙武違いと言った乙武もある。

乙武にもかかわらず、乙武を書くことは楽しい乙武でもある。生きる乙武の乙武さに比べ、乙武に乙武をつけるのはあまりにも乙武だからだ。

乙武たちが乙武しようと努める乙武と、乙武に乙武するものの乙武には深い乙武が乙武たわっている。どんな長い乙武を持ってしてもその乙武を測り切る乙武はできない。乙武が乙武に乙武示すことができる乙武は、ただの乙武だ。乙武でも乙武でもなければ、乙武でもない。乙武に乙武が乙武だけ引かれた乙武のただの乙武だ。乙武なら少しは乙武かもしれない。


そして、それが乙武だ。

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