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桜が咲くということ

昨日と今日はとても暖かかった。
昨日は子どもたちを連れて公園に出たが、行きすがら全員上着を脱ぎ捨てたほど。
今日は保育園の送り迎え以外は自宅にいたが、夜まで暖房をつけずに1日過ごすことができた。

昨日も今日も最高気温は17℃前後になっているから、もう春だと言ってもいい(そうは言っても明け方には1℃台を記録しているのが東北感がある)。
花粉も容赦なく飛んでいる。間違いない。春が来た。

春夏秋冬すべてにおいてなんらかの花粉のアレルギーをもっているわたしだが、例に漏れず春が1番つらい。
常にくしゃみと鼻水に悩まされ、喉の奥がたまらなく痒くなり、いけないと思いつつ最終的には歯ブラシを喉に突っ込んでゴシゴシとかいてしまう。
だからわたしは春になると洗面所にばかりいる羽目になる。

不快症状と共に過ごす春であるが、それでも毎年なんだか浮き足立ってしまう。
別に春だから何があるというわけでもないのだが、なんとなくソワソワし、なんとなく楽しく、明るい気持ちになるのだ。
春は自分が誕生日を迎える季節でもあるからかもしれない。

そんなわけで、昨日から今日にかけてのわたしはどことなくウキウキした気分でいる。
無印良品週間のウキウキが落ち着いたばかりなのにまたウキウキしている。
とんだウキウキ人間だ。これが離婚調停を控えた人間の情緒だとはにわかにも信じ難い。

ウキウキしすぎてビールを買った。
子どもたちが寝た後のリビングで、大好きなじゃがりこチーズをつまみにビールを飲みつつ、このnoteを書いている。
これもわたしにしては非常に珍しい。
わたしが世界で1番好きな場所はお布団の中で、寝かしつけ後の布団から極力出たくない人間なのだ。

ちなみにわたしはビールにおいてアルコールを重視しないため、1人でビールを飲む際はノンアルコールビールを選ぶことが多い。
いまも手にしているのはオールフリーだ。だからシラフである。シラフのウキウキ人間である。

なぜわたしはこんなにもウキウキした気持ちでいるのか。

春の浮き足だった気持ちを招く大きな要素の一つに、桜がある。
桜、とりわけソメイヨシノは、春の代名詞といっても良い。
今も、東京の靖国神社の桜が花開く「開花宣言」を今か今かと待つニュースが流れている。
ソメイヨシノが開花したところで何かが変わるわけでもないのだが、それでも人々は開花を待つのだ。

今では有名な話になったが、ソメイヨシノはすべて同じ遺伝子を持つクローンだ。
最初に生まれた奇跡の1本から、接木で増え続け、今や世界中に植えられている。
だから同じ地域にある全てのソメイヨシノが、ほとんど同じタイミングで開花する。

つまり、桜が咲き乱れる現代の日本の「春」の風景は、人間が作り出した人工物だともいえる。
誰しも浮き足立つような奇跡の風景を作り出した日本人は、それをもって春を宣言したいほど、その風景を愛したのだろう。
そしてその日本人の遺伝子は、今につながっている。
だから人は、春に心奪われるのではないだろうか。
自分たちの成果物への賞賛も込めて。

成り立ちはどうあれ、ソメイヨシノが一斉に開花する姿は圧巻だ。
そしてソメイヨシノの生命力は並々ならないものがある。
枝先からはもちろんのこと、木の幹や、根から直接開く花さえもあるのだ。

冬は長かった。
真冬には、また暖かくなることが信じられないような寒さを感じる。
それでも季節は巡り、春が来る。

春が来たことを、一斉に祝うようなソメイヨシノ。
その喜びを表現するような生命力。
桜色に彩られる風景。

ソメイヨシノから伝わる"気"のようなものが、春には満ち溢れているのではないか。

目に見えないものはあまり信じない主義なのだが、自分自身の気持ちが1つの季節にここまで影響を与えられると、そんな可能性もあるだろうなと考えてしまう。



わたし自身のこの先のことは何も決まっていない。
離婚がいつ成立するかもわからないし、仕事も決まらない。
女手一つで子どもたちをちゃんと育てられるのか、その確証さえもない。

だけど春が来て、桜が咲くことは決まっている。
だからわたしはウキウキしているのかもしれない。
不透明な未来を、確実に彩る桜色に希望を委ねているのかもしれない。

春は始まりの季節。
桜が咲けば、きっとうまくいく。

いや、仮にうまくいかなくても構わない。
桜を楽しむ気持ちがそこにあるだけで、充分なのかもしれない。

桜の開花を、心待ちにしている。

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